日本人はストリートピアノの本当の意味を何も知らない

日本ではテレビ番組などで日本や海外のストリートピアノを扱った番組が出始めたため、近年は日本国内の様々なところでもストリートピアノを置くようになりました。

しかし私がなんだか違うなと感じているのは、日本のテレビや動画では、なぜかプロの演奏家や芸能人がストリートピアノを弾いてそれを番組にしたり、動画にして再生数を稼いでいるということです。

2025年12月9日発売の私の最新書籍である『世界のニュースを日本人は何も知らない7 フェイクだらけの時代に揺らぐ常識』でも解説しましたが、日本人は海外からやってきた新しいことの歴史や背景を知らないので、その根源を理解せず、表面的になぞっているだけだということがよくあります。

そもそも実はストリートピアノというのが始まったのが、イギリス北部のシェフィールドです。

2003年にアパートに引っ越したけれども、中古のピアノを置く場所がなかった大学院生のダグ・ペアーマンさんが、ケンブリッジ大学を卒業した従兄弟のヒュー・ジョーンズさんの勧めに従って、シェフィールドの街中の道に中古のピアノを置いて「弾いてください」と掲示したのです。

シェフィールドのストリートピアノ Wikiwandより

日本の皆さんはシェフィールドがどういうところか知らない方が多いと思いますが、ここはもともとスプーンやフォークなどの金属製品を作っていたヨークシャーの街で、今は製造業がすっかり下火になったイギリスでは、過疎化している感じの街です。

ヘビーメタルとハードロックに詳しい方であれば、デフ・レパードというバンドの出身地であることをご存知だと思います。もともと工業町ですから、デフ・レパードのメンバーも工場で働いていました。

デフ・レパード Wikipediaより

私はここに何回も行っていますが、かつての元気はなく、それといった仕事もないので、若い人はロンドンや海外に行ってしまいます。ヨークシャーの街はどこもそんな感じです。

イギリスというのは日本に比べると大変格差の大きなところです。

今だけではなく、昔から音楽に触れることができる人々というのは、中の上の階級に限られています。

クラシック音楽やバレエといったものは、裕福で高学歴の管理職になるような人々や富裕層のものです。

日本のようにたくさん楽器店があるわけではなく、教室も個人レッスンが主体なのであまりありません。

日本はヤマハやカワイ楽器がピアノやエレクトーンを売るために全国に音楽教室を作り、格安の楽器を売ってくれたので、音楽が大衆に普及しましたが、イギリスを始めとして欧州ではそうではありません。

やはり音楽というものに階級的な縛りがあるので、大衆にクラシック音楽を普及させようという意図が音楽界にもメーカー側にもなかったのです。

そしてイギリスは日本よりも格差が凄いですから、公立の学校でも音楽の授業は全く充実していません。

多くの人は楽譜も読めませんし、合唱すらきちっとできません。

今ではさらなる予算カットで、公立の学校は音楽の時間がほとんどないような状況のところも多いので、音楽に触れさせたい親は自費で音楽教室に子どもを通わせます。

私立の学校の場合は、学校の中でほとんどの生徒が小さな頃から個人レッスンを受けるので、ピアノやバイオリン、チェロ、トランペットといったオーケストラで使われる楽器を演奏することができます。

さらに彼らがイギリス国教会系の学校やカトリック系の学校に行っているのであれば、教会向けの合唱を熱心にやりますから、プロ並みに歌うことができます。

しかし、公立の学校では合唱コンクールに出ることさえも大変困難なのです。

公立の学校では、音楽の代わりに麻薬や暴力が当たり前になっています。

イギリスというのはそういう環境なのです。

そしてこれは欧州の他の国や北米でもあまり変わりません。日本人が理解していない格差です。

そういう格差がある中で、ピアノをアパートに置けなくなった若い人が、道に使わなくなったピアノを置いて誰でも弾いていいとやってくれたのです。

ペアーマンさんとジョーンズさんは、単にピアノを人に活用してほしいと思っただけでした。

しかし、ペアーマンさんが大学院生で、ジョーンズさんはケンブリッジ大学を出ているということからもわかるように、彼らはイギリスの中の上の階級であり、知識階級です。

つまり彼らは音楽に触れる環境にあって、親がピアノを買うことができる富裕層だったのです。

そういう方の少なからずは、特にイングリッシュ系の場合は、やはりキリスト教的な考え方がありますので、社会に貢献をしなければならない、何かを与えるべきだという考え方があります。

これはイギリスだけではなく、北米や欧州の中流以上の階級の中にある考え方です。

つまり、パブリック・グッドというものに対して貢献をすること。これはキリスト教的な精神の根幹の一つでもあります。

社会に貢献をすることが神に対する奉仕だからです。自身は無神論だと言っている人でも、潜在意識の中にそのような感覚があります。

ですから、彼らは奉仕活動やボランティアに大変熱心です。日本人の私から見ると、まるで何かに取り付かれたように一生懸命奉仕活動をやるのです。そしてクリスマス時期ともなれば募金を熱心にやります。

彼らが寄贈したピアノにより、ピアノに一生触れることがないたくさんの人々がピアノに触れる機会を得ました。その中には、一度もピアノのレッスンを受けたことがない人や、ピアノを見たこともない人も多かったのです。

そして、寂れていたシェフィールドの街中にも楽しみがもたらされました。ピアノの周りに人が集まって、街中に音楽が流れるようになりました。

そのような環境では、何か悪いことをしたり、暴力を振るうという人も抑制されます。つまりこれは、街の中にたくさんの花を植えるのと同じことなのです。

欧州や北米では、街中の犯罪を防止するために、素敵な花壇を作ったり、ベンチを置くことがあります。

これは環境を整えて暴力を防止するための施策であり、コミュニティを作るための手段なのです。そして、この無償のピアノがその役割を果たしたわけです。

そして2008年になると、シェフィールドよりもさらに街が荒れているバーミンガムで、「Play Me, I’m Yours」というプロジェクトが始まり、ピアノが置かれるようになります。

この試みは海外でもニュースになり、ヨーロッパを中心に各国に広がっていったのです。

つまり、ストリートピアノのもともとの歴史やその背景にある精神を考えた場合、たくさんのピアノのレッスンを受けて音大に行ったような人やプロになった人が、ピアノに触れる機会がない人や素人の人を差し置いて、プロの技をみせびらかすといったことは、その精神には全く合わないということなわけです。

むしろコミュニティを作り上げるという信念を破壊するような破壊的な行為であります。

プロが流暢にピアノを弾いてしまったら、ピアノに全く触ったことがない人や初心者が、触ってみようと思う気分が削がれてしまいます。

音楽というのは、人の心に潤いをもたらし、喜びを与えるものでなければなりません。

しかし、それがプロや裕福な人々が、自分が受けてきた教育や技能をみせびらかす自己承認の道具になってしまっては意味がありません。

この人々は一体、何のために音楽をやるのでしょうか。自分のことを自慢するためですか。

音楽というのは、聞く人がいて成り立つものです。聞く人たちのことを全く考えない音楽は、ただの自己満足に過ぎません。思いやりや社会への奉仕といった精神からは、全くかけ離れたものになってしまいます。

私は、プロが自慢げな顔でストリートピアノを弾いて動画を上げているのを見ると、とても悲しくなります。

あなたたちがたくさんのレッスンを受けられたのは、保護者の資産やお金がたくさんあったからであり、そういったお金は、社会のたくさんの人々がサービスや商品を買ったり、税金を払ってきたからこそ成り立っているものであります。

世の中の人々がいなければ、あなた方の保護者もお金を稼ぐことはできないのです。

日本ではこのように、ストリートピアノがただ単にかっこいい何かだと思われていますが、その歴史を考え、またストリートピアノが最初に置かれた場所の格差や、経済的な厳しさといったものにも目を向けてほしいと思うのです。

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