
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第7回「決死の築城作戦」(2026年2月22日放送)で、墨俣一夜城の築城が描かれた。
しかし豊臣秀吉の輝かしい出世物語として広く日本人に親しまれている「墨俣一夜城」の伝説は、決して歴史的な事実ではなく、江戸時代から近代にかけておよそ300年もの歳月をかけて形成された壮大なフィクションである。
在野の歴史研究家である藤本正行氏・鈴木眞哉氏らの研究によれば、この伝説は、ごくわずかな史実の断片に、娯楽性を求めた江戸時代の作家たちの脚色と、つじつま合わせを試みた明治時代の歴史学者による誤認が幾重にも積み重なって出来上がったものとされている。
以下に、その虚構がどのように生み出され、そしてそれが史実といかに懸け離れているかを紹介したい。
一級史料の沈黙:『信長公記』との不整合
織田信長の右筆を務めた太田牛一による『信長公記』は、信長の事績を細大漏らさず記録した第一級の史料であるが、永禄9年(1566年)前後の木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)による墨俣築城に関する記述は皆無である。
言うまでもなく、牛一は信長の偉業を賞賛する意図を持って『信長公記』を執筆した。もし秀吉が「一夜で城を築く」という大胆不敵な作戦を成功させ、それが敵(斎藤氏)の本拠である稲葉山城の攻略につながったとしたら、信長の戦略と人事の妙を誇示するために、牛一がこの事象を看過することはあり得ない。その欠如は、すなわち史実としての拒絶を意味する。
織田信長の用兵思想との矛盾
『信長公記』が伝える織田信長の美濃攻略(永禄4年~10年)は、数年をかけて着実に前線基地を押し上げていく組織的かつ長期的な軍事作戦であった。信長は、宇留摩城(鵜沼城)や猿啄城、加治田城といった要衝の敵将に対し、圧倒的な武力を背景とした調略(内通工作)を執拗に展開し、流血を最小限に抑えた「無血開城」を積み重ねることで、斎藤方の防御網を内側から崩壊させた。
信長の生涯を追っていると、自ら積極的に出馬するものの、主力決戦は決して多くない。信長の軍事行動は、大軍で威圧して敵軍からの離反を誘い、敵を内部崩壊させ、「戦わずして勝つ」ことを目的としていた。つまり信長の用兵思想は外交戦を基軸とし、自軍の損害を極小化する極めて合理的なものであった。
そもそも敵国である美濃の最前線に、十分な援軍や後方支援もないまま単独の小部隊で橋頭堡を築き、維持することは不可能である。勝利の蓋然性が極めて高い状況を構築してから動くのが信長の定石であり、不確定要素の多い敵地への強行築城は、当時の信長が示してきた軍事的リアリズムと真っ向から対立する。
一夜城伝説の萌芽:小瀬甫庵による「事実」の再構成と創作の混入
伝説の出発点となる「史実の核」は、織田信長が美濃攻略の過程で実際に行った一時的な軍事行動にある。第一級史料である太田牛一の『信長公記』によれば、永禄4年(1561年)5月、信長は美濃国主・斎藤義龍の急死に乗じて西美濃へ侵攻した際、「洲俣(墨俣)」に要害(砦)を築かせて一時的に滞在した。しかし、この砦はあくまで短期的な侵略の拠点としての運用に過ぎず、織田軍はその後に全軍を撤収させ、墨俣城を放棄している。
史実から物語への変容が始まったのは、江戸時代初期のことである。儒医の小瀬甫庵は『信長公記』を下敷きにして『甫庵信長記』を執筆したが、その際、物語を面白くするために、『信長公記』では一連の流れであった永禄4年の森辺(森部)・軽海の合戦を恣意的に分割し(森辺の戦いを永禄4年、軽海の戦いを永禄5年とする)、本来は永禄4年の出来事であった墨俣(洲俣)の要害構築を「永禄5年」へとスライドさせた。
さらに、後に執筆した『甫庵太閤記』の「秀吉軽一命於敵国成要害之主事」では「永禄9年9月に信長が美濃に要害を築かせ、秀吉を城主とした」と記しているが、この記述には「墨俣」という地名が存在しない。また、秀吉は蜂須賀小六などを集めて「番手」(警備)として要害に詰めさせ、自分が城主となることを信長に提案しているが、秀吉が築城の指揮をとったとは書かれていない。
物語の定着と変容:江戸中期から幕末における「一夜城」伝説の完成
小瀬甫庵の秀吉出世物語は、江戸時代を通じて大衆文化の消費対象となり、その過程で秀吉の築城譚もドラマチックな変容を遂げた。
江戸時代中期の貞享2年(1685年)頃、遠山信春『総見記』(織田軍記)は、「木下藤吉郎籠洲俣取出事」において甫庵が記した2つの別個の記事を強引に統合し、「永禄5年5月に信長が墨俣に築城して秀吉を城主にする」という筋書きへ昇華させた。
そして安永期(1772~1781年)に作られたと見られる白栄堂長衛の実録(実際の事件に基づく物語)『太閤真顕記』に至り、秀吉は墨俣城の「城主」から「築城の主体」へと昇格する。佐久間信盛や柴田勝家という織田家の重臣が相次いで築城に失敗した後、秀吉が大胆な発想によって築城に成功したという我々がよく知る展開は、同書で完成する(ちなみに同書では7日間で築城したとある)。
これは戦術的に見れば「兵力の逐次投入」という最悪の愚策である。当時、信長には他に交戦中の強敵はおらず、総力を挙げて築城を支援することが可能であった。信長が部下に順番に「力競べ」をさせて、敵に各個撃破されることを傍観している理由は皆無である。この展開は「秀吉の英雄性」を際立たせるための、立身出世物語の要請から生じた叙述の作為に他ならない。
江戸時代、『太閤真顕記』は写本で大いに流通した。そして主に同書に依拠して書かれた「太閤記もの」の決定版が、上方読本・武内確斎『絵本太閤記』(七編、岡田玉山画、寛政9年〈1797年〉~享和2年〈1802年〉刊)である。

絵本太閤記
国立公文書館デジタルアーカイブより
『絵本太閤記』でも秀吉は7日間で墨俣城を築いているが、同書は「洲股砦成一夜」という印象的な小題と挿絵をつけた。同書が刊行され大ベストセラーになったことによって、「墨俣一夜城」という呼称が生まれたのである。
(後編に続く)







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