キエフからモスクワへの遷都から始まるウクライナ紛争

ウクライナ紛争をめぐる地政学で鍵となるのは、キエフ(現代名はキーウだが歴史についてはキエフが適切である)を首都とするキエフ大公国からモスクワ大公国にルーシ国家の代表が交代したことだ。その経緯を新著『国家の興亡史からわかる現代地政学――西欧の衰退』(さくら舎)では解き明かしているので、その抜粋を紹介する。

中世前期に、ロシアが世界史に登場したのは、6世紀頃から東スラブ人がポーランド方面から移動してきて、一方、スカンディナビアからノルマン人も来航し、862年にリューリクという武人がノヴゴロドの市民の要請を受けて建国した。

ウクライナ キエフ Ruslan Lytvyn/iStock

ノヴゴロドはヴォルガ川水系に属しながら、バルト海やドニエプル川水系へ通じる位置にあり、交易で栄えた。そのリューリクの後継者オレグは882年にキエフを征服し、ルーシ国家の隆盛につなげた。

988年、大公ウラジーミル1世(リューリクの曾孫)は東方正教を受け入れ、東ローマ帝国と結んで国を発展させた。この公国はヤロスラフ賢公(1019~1054年)の時代に最盛期を迎えたが、「ロタ制(階段制・輪番制)」という領地と称号の輪番制を敷いた。兄弟が順番に封地を得て、兄が死んだりしたら弟が兄の封地を引き継ぎ、それが一巡したら孫たちが継ぐと言った制度である。分割相続で大公の権力が弱まった。

キエフ大公は名誉ある地位だが、諸侯を指揮命令できる力は無かった。また、12世紀にはキエフより西の地域を地盤にするハールィチ家(ガーリチ家)、キエフより北東の地方のチェルニーヒウ家、北東ロシアのロストフ=スーズダリ家(ユーリー・ドルゴルーキーが何度もキエフ大公に)、キエフの北にあるスモレンスクを基盤にするムスチスラフ家(ロスチスラヴィチ)がたらい回しでキエフ大公となった。

そして、やがてモンゴル帝国の侵攻を受けて征服された。 キプチャク汗国(ジョチ・ウルス)は、1240年にキエフ大公国を滅ぼし、ヴォルガ下流のサライを首都とした。13世紀中葉~14世紀前半に全盛だったが、ティムールの侵攻やペストで衰退し、15世紀にクリミア汗国・カザン汗国・アストラハン汗国・シビル汗国へ分裂した。

キエフ大公国におけるローマ教皇的な存在だったキエフ大主教は、キプチャク汗国からも特権を認められるなど良好な関係だった。ただ、キエフの街が荒廃し、ルーシの中心がリューリク家の支流の一つであるロストフ=スーズダリ家の支配地域である北方に移ったので、大主教マクシムは1299年にキプチャク汗国のハーンの了解のもとでキエフからウラジーミルに移ったが肩書きは「キエフおよび全ルーシの大主教」のままだった。

ロストフ=スーズダリ家のアレクサンドル・ネフスキーはモンゴルに従属しつつ自治を確保し、ウラジーミル大公やキエフ大公を名乗り、その子孫がモスクワ大公国を建国した。そして、1325年には、キエフ大主教座もモスクワへ移動した。それが「モスクワおよび全ルーシ大主教(後に総主教)」となったのは、1488年になってからだ。

ロシア モスクワ Mordolff/iStock

キエフ大公国の正統性の裏付けである大主教座の変遷は、ロシア帝国がキエフ大公国の唯一無二の継承国家であることを意味する。


国家の興亡史からわかる現代地政学――西欧の衰退

【目次】
第1章 文明の源流と民族奥亡が紡いだ古代ユーラシアの大地図
第2章 大航海、新帝国、革命が形づくった近代ユーラシアの再構築
第3章 ユダヤ・イスラーム・ギリシアの世界が形づくった中東の文明圏
第4章 ロシアとウクライナを形づくった千年の興亡史
第5章 インド文明を形づくった大地・民族・宗教の多層史
第6章 王朝・民族・地政学で読み解く東アジア世界の歴史構造

【関連記事】

 

コメント投稿をご希望の方は、投稿者様登録フォームより登録ください。

コメント