ゼノンの詭弁では、アキレスは、少し先に歩いている亀を抜けない。アキレスが亀の位置まで到達するには、一定の時間を要し、その時間経過中に、亀は何がしか前進し、次にアキレスが再び亀に追いつこうとすると、また一定の時間が経過して、更に亀は前進する。故に、どこまでいってもアキレスは亀を抜けない。
この問題について、ベルクソンの解は明快である。本来は分割できない時間の持続を空間に投影して、任意分割が可能であるかのようにみなしたところに、根底の誤謬があるというのである。アキレスの運動が分割不能な時間の持続であるのにもかかわらず、それを空間に投影して恣意的に分割したが故に、逆説が生じているのである。

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しかし、真の論点は、亀を基準にして、アキレスの運動の持続を分割することである。つまり、アキレスは、亀を見て走る限り、亀を抜けないのである。アキレスは、亀を見なければ、自然と亀を抜き、亀を抜いたときに振り返ることで、亀の存在に気付くのである。
亀を見なければ、未来に亀はいない。亀は過去を振り返ったとき、のろのろ歩くものとして、そこに見出されるだけである。アキレスは未来に向かって前進しているのではない。なぜなら、未来を見ることができない以上、未来に向かうこともできないからである。アキレスは、過去に遠ざかる亀を見て、背を前にして後退しているのである。そして、未来に背を向けて過去を見ているからこそ、未来を恐れずに後退できるのである。
ベルクソンは、人は、薔薇を見るとき、薔薇にまつわる全ての記憶を瞬時に甦らせる、故に、誰も同じ薔薇を見ないといった。より正確には、同じ薔薇を見る人々は、その瞬間において、各自の過去の全てを包含した内的時間を生きているということである。各自の内的時間の長さや密度は、それぞれの人生の厚みを反映して異なる。実際、これは、時を忘れて見惚れたり、退屈で時をもて余したりする日常経験に一致しているわけである。
では、客観的時間は何なのか。ベルクソンは、それを内的時間の外的空間への投影だと説明した。内的時間の個別性は、客観的測定を許さないが故に、一般的抽象空間を借りることによって初めて測定可能になる。時間の長さは、直線の長さの比喩なのである。
そして、近代以降の科学は、単なる比喩を超えて、時間の空間化を前提にして、高度な発展を遂げたものなのである。そこでは、未来は、過去の延長として、実在を主張している。現在では、誰しも時間は過去から未来へ流れていると考える。更に、単に時間が流れるのではなく、流れつつ進化し、成長し、改良されていくと信じられている。だからこそ、過去が研究され、過去の改良版として未来が構想され、構想された未来に向けて前進しているように普通に実感されているのである。つまり、過去から抽出された未来は、実現すべき目標として、いつも未来にあると思うのが普通であるわけである。
しかし、それは亀を未来に置くことと同じである。アキレスは未来に置かれた亀を抜けない。事実として、アキレスが亀を抜いているのは、亀が過去にあるからである。過去を見ることは、過去を未来に伸ばすことではない。革新は、過去の延長には決してあり得ない。
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森本 紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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