仏教がインドから日本に伝来するまでの叙事詩(前篇) 

昨日は、『知られざるセレウコス朝と仏教・キリスト教の誕生』という記事を載せて、仏教もセレウコス朝の影響下で建国されたマウリア王朝やセレウコス朝の旧領のなかでギリシャ人も関与して建国されたガンダーラで宗教として完成したものだという話をした。

知られざるセレウコス朝と仏教・キリスト教の誕生
アレクサンドロス大王が前323年に急死すると、確固たる後継者がいなかったので、大帝国は統一を維持できなくなった。王妃だったバクトリア(アフガニスタン)のロクサネは妊娠中で、知的能力に問題があった大王の異母兄弟アリダイオスは知的能力に問題があ...

この話は、『検証 令和の創価学会』(小学館)で取り上げ、さらに、私が監修した『今こそ知りたい創価学会と公明党』(TJMOOK)でも取り上げているが、とくに、後者ではインドに始まった仏教が日本に伝わるまでを分かり安く取り上げているし、『国家の興亡史からわかる現代地政学――西欧の衰退』(さくら舎)ではその背景を解説した。

そこで、今回と明日と2回に分けて、『今こそ知りたい創価学会と公明党』(TJMOOK)じゃら抜粋して、インドから中央アジア、中国、半島を通じて日本に仏教がどのようにつたわったかについて紹介する。


今こそ知りたい創価学会と公明党

「アレクサンドロスの決断」という池田大作が1987年に書いた、古代ギリシャの英雄を描いた小説があるというと意外な気がするだろう。池田は平和を希求した知識人を深く尊敬したが、世界文明の普及を実現した英雄も好んだ。

「プルターク英雄伝」を愛読した池田大作は、大王の東方遠征を単なる征服でなく文明融合(ヘレニズム)の偉大な事業とみなし、人格を形成したアリストレレストとの師弟愛や師から得た人間としての成長なども描き出している。

なにしろ、「知られざるセレウコス朝と仏教・キリスト教の誕生」とでも紹介したように、大乗仏教が誕生した歴史を振り返ってみると、それがヘレニズム文明のなかからうまれたものであることが理解できるからだ。

仏教発祥の地インドのブッダ・ガヤに建つマハボディ寺院 tinnaporn/iStock

仏教の成立は三段階の節目がある。紀元前5世紀に活躍した釈尊(ブッダ)が原点であるが、この段階では体系化されたものではなかった。

紀元前3世紀にインドを統一して仏教を国教にしたアショーカ大王(在位前268~前232年)のもとで普遍的な世界宗教となった。より精緻になったのは、ガンダーラ美術や法華経の成立に象徴される紀元前後の北インドでの大乗仏教の確立による。

この大乗仏教が、シルクロードを経て後漢から三国時代、南北朝時代の中国に受け入れられ、そのうち南朝系の仏教が百済経由で日本に到達した。そして、日本では鎌倉仏教や戦国時代での法華経や一向宗の発展。そして、近代になってからの創価学会を含めた仏教系新宗教の隆盛で世界でもっとも先端的な仏教の王国となっているのである。

仏教の主な伝播ルート

釈尊はアーリア人の侵入のあと小国分裂だった北インドのガンジス川流域にあるネパールのルンビニーで生まれ、紀元前400年頃に入滅したとみられる。ギリシャでソクラテス、プラトンが活躍し、アケメネス朝ペルシャ帝国が全盛、中国では孔子や老子など諸子百家が活躍した時代だった。

アレクサンドロス大王がペルシャを滅ぼしたのは、釈尊が入滅して数十年のちである。アレクサンドロス大王の後継者で有名なのは、クレオパトラを出したエジプトのプトレマイオス朝だ、このセレウコス朝とそこから独立したギリシャ人の諸王国は、東西の架け橋として世界の文明の発展に寄与した。

アショーカ王時代以降のインド文化は、セレウコス朝を通じてアケメネス朝ペルシャやギリシャの影響を受け、壮麗な宮殿や各地の円柱、岩を削って事跡が記すことなどが好まれた。

チャンドラグプタは、セレウコス朝 に500頭の軍象を提供することと引き替えに北インドの支配権を認められ、アショーカ王(在位前273~前232年)は兄弟を殺し、戦いで数十万人を殺した。この悲惨な経験を機に人生観を変え、仏教へ帰依した。タルマ(法)による統治を目指して、殺生や肉食の禁止、年長者や父母を大事にし礼儀正しくする、布施を怠らない、奴隷や貧民も大事にするなどを呼びかけ、世界ではじめての人類愛の政治における実践だった。

前2世紀には、ギリシャ人が建国した バクトリア(アフガニスタン北東部が中心)が北西インドに南下し、ギリシャ系のメナンドロス王(ミリンダ王:在位前155年頃~前130年頃)は仏教僧との対話ののち仏教に帰依した。

インドに侵入して支配するようになったアーリア人たちの宗教はバラモン教だった(紀元前1600年頃)。人は生まれ変わりを繰り返すという「輪廻」を信じ、悪い来世を避けるために「解脱」しようと神秘的なものが好まれ、苦行を重視した。

厳格なカースト制度を敷き、宗教指導者であるバラモン階級が最上位だった。しかし、前5世紀ごろ中産階級を中心に不満が高まり、生まれたのが仏教である。

釈尊は、生・老・病・死という人間が逃げられない苦しみを見て、王子としての恵まれた境遇もはかなく感じ、苦悩の解決法を探究しようと城を出て出家し、瞑想修行の末に生命と宇宙を貫く永遠普遍の〝法〟に目覚めた。人々が目先の欲望にとらわれ、他の人を不幸に陥れても幸せになろうとしていると喝破し、内なる永遠普遍の法に目覚めて、本来の清浄な生命に立ち返る生き方こそ、人間が人間らしく生きるために必要だとした。他の人も自身と同じように大切な存在であると知って、他の人を大切にすることが仏教で説く〝慈悲〟である。

インドでは2世紀ごろまでに大乗仏教が確立し、3~6世紀は北インドでグプタ朝が栄えたが、仏教が徐々に衰退する一方でヒンドゥー教が再生した。

前1世紀後半、匈奴に逐われてフェルガナ(ウズベキスタン)にあったイラン系大月氏が、1世紀半ばにインドへ進出してクシャーナ朝を開き、ヘレニズム文明の影響下でガンダーラ美術が花開いた。とくに2世紀前半のカニシカ王は名君として知られる。

デカン高原ではサータヴァーハナ朝がローマと海上交易をして繁栄し、2世紀ごろのナーガールジュナは般若心経にある「空」の思想を確立した。仏像の制作はガンダーラでギリシャ彫刻の影響下に始まったが、南インドにも広まり、浮き彫りが好まれ衣服が身体にまとわりつくようなインド化された表現が生まれた。

5世紀にはまだ、仏教もナーランダ僧院が教学で重きを成したが、ヒンドゥー教が国家宗教として優位を占めた。7世紀初頭にはヴァルダナ朝のハルシャ=ヴァルダナ王が北インドを統一し、仏教を保護した。唐の僧・玄奘が訪れたのはこの時代であるが、7世紀中葉のハルシャ王の死後、北インドは混乱し、イスラム勢力の進出を迎える。

仏教衰退の理由として、ヒンドゥー教が個人救済を大衆化したことがあげられるが、 政治的には、仏教は王権の神格化をできなかったが、ヒンドゥー教は王をダルマの体現者として正統化した。仏教は大乗化・密教化により難解化し、在家信仰が軽視され出家中心となった。

釈尊の死の翌年に長老たちが集まった「第一次仏典結集」から四回の結集が行われ、宗教として体系化されたが、はじめに成立したのは阿含経などだが、釈尊の真意を探求したうえで、一世紀頃に成立した法華経こそ釈尊の真意を探求していく作業の最終成果物である。

法華経では、「一切衆生を自分と同じ境涯に高めたい」という釈尊の願いが、法華経を説くことで満たされたとされ、釈尊の無数の弟子たちに対して、その永遠の願いを受け継ぎ実現していく慈悲の行動を呼びかけている。

大乗仏教が発展し、ギリシャ彫刻の影響のもとで仏像がつくられたのはここで、日本にまでその影響は及んだ。とくに、イラン系クシャーナ朝のカニシカ王(2世紀)は敬虔で模範的な仏教徒として現代日本でも尊敬されて、池田大作の「私の人物観」でもアショーカ王と並んで取り上げられている。


今こそ知りたい創価学会と公明党

【目次】
序章 公明党と新党の今後を展望する
第1章 日本人が知らない巨大教団の実像
第2章 仏教史からひもとく創価学会の歴史
第3章 公明党とは何か
第4章 現代史からひもとく公明党60年史
終章 創価学会と公明党の未来

【参考記事】

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