先に小欄で、高市早苗首相の「中傷動画」疑惑を取り上げた。総裁選や衆院選で、首相の陣営が対立候補をけなすAI動画を作り、ネットに広めていたのではないか——そう報じられている問題だ。前回、私は、首相がこれを全否定し続けること自体が政治的に高くつく、と書いた。だが、読者からの反論を受けて証拠の側を検証し直すと、見えてきたのはむしろ逆の構図だった。

反論をくれた読者の言い分は、「順番が逆だ。首相の対応を論じる前に、まず『証拠』が信用できるのかを問え」というものだ。もっともな指摘である。そもそも立証の責任は疑う側にあり、その立証は現にひとつ崩れた。出発点はむしろ、首相に有利に傾いている。
反論は三つに分けられる。第一に、証拠とされた動画は報道機関が訂正・削除に追い込まれ、すでに崩れている。第二に、作った本人が「これは中傷ではない」と言っている。第三に、誰と連絡を取ろうが個人のプライバシーで、詮索は行き過ぎだ——。
どれも言っていること自体は正しい。問題は、それが今回の件にどこまで当てはまるかである。

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「証拠の動画は、もう崩れている」——だが
一つ目の反論。今回「証拠」と呼ばれるものは二種類ある。ネットに出回ったとされるAI動画そのものと、動画を作った人物と首相の秘書とのあいだに残った、メッセージやメール、Zoom会議の音声だ。
おかしくなったのは前者だけである。文春が「総裁選で流した」とした動画に、選挙より後の日付が使われていた。これでは、いつ作られたものか分からない。報道がいったん訂正に追い込まれた事実は重く、慎重になれという反論は正当だ。
傷ついたのは動画一枚である。秘書とのやり取りの記録は、写真の日付とは関係なく残っている。写真の一枚が「日付が違う」と分かっても、別に積まれた手紙の束まで消えるわけではない。動画の不備は、手紙には届かない。もっとも、記録が残ることと、工作があったことは、まだ同じではない。残った手紙に何が書かれているかは、これから読まれる段階だ。動画が崩れたのは擁護側の正当な得点であり、残る記録も、いまの時点で首相の不利を決めるものではない。
「作った本人が中傷ではないと言っている」——だが
二つ目の反論。動画を作ったとされる松井健氏が「これは中傷ではない」と述べている。だから枠組みごと見直すべきだ、という。彼が否定しているのは中身ではない。松井氏は「政治家を中傷した」という批判に対し、「法律違反ではない。欧米では普通に行われている『世論操作』の一種だ」と反論している。つまり「作っていない」とは言っていない。「作ったが、悪いことではない」と言っているのだ。
ただし、これは作り手の側の話である。彼が何を語ろうと、それがそのまま首相の関与を示すわけではない。注目すべきは、彼が何を語るかではなく、手元に残した記録が首相本人にどこまで及ぶか、である。
「詮索はプライバシーの侵害だ」——だが
三つ目の反論。犯罪と関係ないなら、首相や秘書が誰と連絡を取ろうが本人の自由だ——この原則に異論はない。連絡を取っていた、というだけで「工作を指示した」ことにはならない。これは首相を守るうえでも、最も大事な一線である。
今回問われているのは私的な交友ではない。首相の公設第一秘書・木下剛志氏が、選挙の動画作戦にどう関わったか、である。これは公職選挙法に触れるかもしれない、公の仕事の話だ。選挙中の組織的な工作の疑いを調べること自体は、報道や国会の役目の範囲に入る。そして調べられること自体は、潔白であればむしろ首相の側に有利に働く。
それでも残る「否定の仕方」の問題
整理すれば、崩れたのは動画一枚で、確かな物証はまだ出ていない。状況は、どちらかといえば首相に味方している。だとすれば最後に残るのは、ただ一点——首相の「否定の仕方」だけである。
首相は、動画を作ったとされる人物について「名刺交換もしていない」「面識はない」と、接点そのものをきっぱり否定した。「覚えていない」ではなく「なかった」と言い切ったのである。もし本当に関与がないのなら——立証が現に一つ崩れた以上、その公算は小さくない——この否定は潔白な者の当然の反応であり、いずれ正しかったと裏づけられるだろう。
問題は、正しいかどうかではなく、伝え方だ。危機対応の定石は、確認できることだけを、退路を残して語ることにある。接点ごと言い切る否定は、潔白なら盤石だが、後から小さな記録が一つ出ただけでも、必要以上に揺らいで見えてしまう。
前回、私は否定の仕方が首相の首を絞めると書いた。いまもその危うさは残っていると思う。検証して分かったのは、危ういのは「否定したこと」ではなく「言い切り方」だけだ、ということだ。守るべき正当性は、おそらく首相の側にある。だからこそ惜しい。崩れたのは動画一枚であって、首相の正当性ではない。惜しまれるのは、その正当性が、否定の仕方によって、かえって見えにくくなっていることである。
尾藤克之(コラムニスト、著述家、作家)
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コメント
尾藤さん、丁寧な再検証をありがとうございます。
前回の論考に寄せられた反論を受け止め、「崩れた証拠」と「なお残る記録」を一段ずつ切り分けたうえで、「守るべき正当性は、おそらく首相の側にある」と結論づけられた姿勢には、言論人としての誠実さを感じました。
そのうえで、読みながら、私と尾藤さんとの見解の違いには、二つの根っこがあると気づきました。
いずれもこの問題の本質に関わると思います。
一つ目は、「コスト」をどこまで広く見積もるか、という点です。
記事は「残った手紙に何が書かれているかは、これから読まれる段階だ」とし、調べること自体は報道や国会の役目だとされます。
それはその通りです。ただ、
私はここで国会という場所の構造そのものを考えてしまいます。
議員のバックには膨大な官僚が控え、外交、予算、安全保障、社会保障と、同時に進めるべき仕事が山積しています。
審議が一つの疑惑に長く拘束されれば、失われるのは議員の時間だけではありません。
省庁の調査、答弁書の作成、関係者との調整まで含め、行政全体に相当な機会費用が生じます。
企業に置き換えると分かりやすいでしょう。
「怪しい手紙があるぞ」との話だけで全社が騒ぎになり、役員も社員も対応に追われ、影響は取引先や顧客にまで波及する。これが2か月続く。
それが二か月続いた末、その段階でなにが分かったかというと「「騒いでるネタは嘘くさい」」それだけ。
もちろん企業と国会は同じではないです。
しかし「まだ手紙があるかもしれない」というだけでこのバカ騒ぎを続けるのが正しいのか、私は疑問に思います。
自分の会社でこれが起きたことを想像してほしいです。
二つ目は、もっと根本的な問いです。
尾藤さんは「危ういのは否定したことではなく、言い切り方だ」とされ、「記憶にございません」のように退路を残すのが危機対応の定石だとされます。
で、仮に高市首相が最初から「確認できることだけ申し上げます」「精査中です」と答えていたら、野党の追及は本当に終わっていたでしょうか。
終わらなかったと思います。
「記憶にないとは逃げだ」「なぜ即答できないのか」「曖昧なのはやましいからだ」——別の表現で追及は続いたはずです。
言い切れば断定が危険、ぼかせば説明責任を果たしていない。
どの答えを選んでも出口がない。
だとすれば、揺らいで見える原因は首相の「言い切り方」にあるのではなく、何をどう言っても「疑惑は深まった」と見えるように仕立てる力が、働いているのではないか。
私はどちらかといえば後者の比重が大きいと感じています。
正しい否定が損をする最大の理由は、疑惑を提示する側が、証拠が弱まった後もほとんど費用を負わずに追及を続けられる一方、疑われた側だけが無限に潔白を証明させられる、その構造にこそ「損」の根があるのではないでしょうか。
今回を機に必要なのは、首相への話法指導よりも、疑惑追及を終結させるための国会のルールだと感じます。
考えるきっかけをいただき、ありがとうございました。次回も楽しみにしています。