次は鯨か、馬刺しか、たこ焼きか?「食べてはいけない動物」が増えるお気持ち世界

犬猫食禁止をめぐる第1回では、私は犬猫を食べないし嫌悪感もあるが、その感情を法律にすることには反対だと書いた。

犬猫食禁止法は「鯨を食べる日本」の論理を壊す
犬猫食禁止法という違和感犬や猫を食べたいとは思わない。正直に言えば、かなり強い嫌悪感もある。だが、その嫌悪感をそのまま法律にしてよいのか。日本維新の会が、議員立法で「犬猫食の禁止法案」の制定を目指していると産経新聞記事が報じた。報道によれば...

第2回では、日本で犬猫の殺処分が続く一方、食べることだけを禁止する矛盾を取り上げた。

犬猫は殺処分しても、食べてはいけないのか
日本では今も犬猫が殺処分されている。行政が犬猫を殺し、遺体を処分する制度は残したまま、「犬猫を食べること」だけを法律で禁止しようという。これは本当に命を守る政策なのか。殺すことはやむを得ない。しかし、食べることは残酷で許されない。その線引き...

では、犬猫食禁止は特殊な問題なのか。海外を見ると、答えは否である。

すでに規制対象は、犬猫からタコ、ロブスター、カニ、馬へと広がっている。規制の理由も、食品衛生や資源保護だけではない。「知能が高い」「痛みを感じる」「人間に近い」「伴侶動物である」といった動物観が、法律の根拠になり始めている。

これは動物愛護の進歩なのか。それとも、国家が食卓を道徳で裁く時代の始まりなのか。

タコは「頭がよい」から養殖禁止

象徴的なのがタコである。

米ワシントン州は2024年、タコ養殖を禁止する法律を成立させた。州法は、州内で商業的なタコ養殖に関与することを禁じている。

ワシントン州議会 HB 1153

カリフォルニア州も同年、食用目的のタコ養殖を禁止する法律を成立させた。禁止は養殖だけではない。養殖されたタコの販売、所持、輸送にも及ぶ。

カリフォルニア州 AB 3162

天然のタコを食べること自体は禁止されていない。しかし、食用生産の一形態が、タコという動物の性質を理由に禁止された意味は小さくない。

タコは問題解決能力を持ち、知的で、孤独性が強く、養殖環境では苦痛やストレスを受ける。こうした主張が法制化を後押しした。

では聞きたい。犬猫は家族だから食べてはいけない。タコは知能が高いから養殖してはいけない。次は何か。イカか、エビか、魚か。

たこ焼きを食べる日本人にとって、これは遠い国の珍しい政策ではない。

ロブスターもカニも「感覚ある存在」

英国では2022年に成立した動物福祉法制で、脊椎動物に加え、タコやイカなどの頭足類、ロブスターやカニなどの十脚甲殻類が「感覚ある存在」として法的に認識された。英国政府は、これらの動物が痛みや苦痛を経験し得るとする科学的知見を根拠としている。

英国政府「ロブスター、タコ、カニを感覚ある存在として認定」

これは直ちに食用禁止を意味しない。しかし、法的に「痛みを感じる存在」と位置づけられれば、次に問題となるのは捕獲、輸送、保管、殺し方、調理法である。

食文化規制は、最初から「食べるな」とは言わない。まず、苦痛を減らせと言う。次に、この飼育方法は残酷だ、この輸送方法は許されない、この殺し方は非人道的だと言う。

規制の一つ一つには合理性があるかもしれない。だが、規制が積み重なれば、漁業者、加工業者、飲食店は新たな設備、作業、検査、輸送コストを負う。

道徳的満足を得るのは規制を求める側であり、費用を払うのは現場と消費者である。

馬は食材か、家族か

犬猫食禁止と最も近いのが馬肉規制である。

米カリフォルニア州では1998年の住民投票により、人間が食べる目的で馬を屠殺すること、馬肉を販売すること、食用屠殺のため州外へ馬を送り出すことが禁止された。対象には馬だけでなく、ポニー、ロバ、ラバも含まれる。

カリフォルニア州 Proposition 6 の立法分析

馬は人間のそばで働き、競技に参加し、名前を付けられ、愛情を注がれる。だから食べてはいけないという。

しかし日本では、馬肉は熊本、会津、長野などに根付いた食文化である。馬刺しを食べる日本人に対し、米国人が「馬は友達なのに、なぜ食べるのか」と問うことは、犬猫食に嫌悪感を抱く日本人の反応と変わらない。

さらに線引きを難しくするのがミニ豚である。豚は食用家畜の代表だが、ミニ豚はペットとして飼われ、家族として扱われる。ウサギ、ヤギ、ニワトリも、ある家庭ではペットであり、別の場所では食材である。

つまり、「伴侶動物だから食べてはいけない」という区分は、動物の種類によって決まるわけではない。人間との関係によって決まる。

家族になった豚と、食卓に上る豚の違いは、豚の側にはない。人間が名前を付けたか、商品番号を付けたかの違いである。

それを国家が種単位で固定し、「この動物は家族」「この動物は食材」と定義してよいのか。

スッポンや亀の規制は同じではない

一方、動物に関する規制をすべて「かわいそう立法」と批判するのも雑である。

米国では1975年から、甲羅の長さが4インチ未満の小型亀の販売が原則禁止されている。理由はサルモネラ症である。子どもが小型亀に触れたり口元へ近づけたりすることで、感染する危険が高いとFDAは説明している。

米FDA「亀とサルモネラ」

また淡水亀やスッポンについては、食用や伝統医療、ペット需要を背景とする乱獲や国際取引が野生個体を脅かしている。こうした規制には、感染症を防ぐ、絶滅を防ぐ、違法取引を防ぐという比較的明確な公共目的がある。

これは「その動物を食べるのが気持ち悪いから禁止する」という話とは違う。だから問うべきなのは、規制するかしないかではない。何を根拠に規制するのかである。

「かわいそう」は無限に拡張する

感染症や絶滅危惧を根拠にするなら、規制範囲を客観的に議論できる。有病率はどの程度か。個体数は減少しているか。代替手段はあるか。規制によってどの程度リスクが下がるか。

しかし、「かわいそう」「知能が高い」「家族に近い」を根拠にすると、線引きは際限なく広がる。

犬猫はかわいそう。馬もかわいそう。タコも知能が高い。ロブスターも痛みを感じる。鯨も社会性が高い。魚も苦痛を感じるかもしれない。

どこで止めるのか。

「人間に近い動物ほど食べてはいけない」という発想を突き詰めれば、食文化は科学ではなく、人間の共感の強さによって序列化される。

かわいい動物は保護される。醜い動物、嫌われる動物、見慣れた食用動物は殺してよい。それは動物の権利ではなく、人間の感情の投影である。

動物福祉のコストは誰が負うのか

動物福祉を高めること自体に反対する必要はない。問題は、誰が利益を得て、誰がコストを負うかである。

タコ養殖禁止で道徳的満足を得る都市住民は、漁業者の所得減や代替水産物の値上がりを負担するのか。馬肉禁止を求める人は、地域の食肉業者や飲食店、伝統料理の損失を補償するのか。

ロブスターの処理設備や輸送規制が強化されたとき、その費用は最終的に価格へ転嫁される。政策を求める側は「命を守れ」と言うだけで済む。現場は設備を買い、人を雇い、手順を変え、記録を残し、違反リスクを負う。

善意や道徳を理由にする政策ほど、費用対効果やKPIが問われにくい。制度の不合理が、生活者と事業者にコストを押し付ける。

次は鯨か、馬刺しか、たこ焼きか

日本が犬猫食禁止を導入すれば、多くの人は「当然だ」と拍手するだろう。だが、同じ論理を外国から向けられたとき、日本は耐えられるだろうか。

鯨は知能が高いから食べるな。馬は人間の友だから食べるな。タコは苦痛を感じるから養殖するな。スッポンは残酷だから食べるな。

そこで日本が「これは伝統的な食文化だ」と反論するなら、犬猫を食べる他国の文化に対しても、同じだけ慎重でなければならない。

多様性とは、自分が好きな文化を守ることではない。自分が嫌悪する文化に対しても、国家権力の発動を抑制することである。

食品衛生、感染症、絶滅危惧、盗難、虐待、虚偽表示なら規制すればよい。

しかし、「かわいそう」「気持ち悪い」「国際的に恥ずかしい」を法律にし始めれば、「食べてはいけない動物」は際限なく増えていく。

政策は「お気持ち」で作るものではない。国家が介入すべきなのは、客観的な公共目的がある場合である。

犬猫食禁止は終点ではない。その先には、馬刺しも、鯨肉も、たこ焼きもある。

それは動物福祉国家ではない。お気持ち国家である。

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