
日本一の役立たず学問・歴史学は皇室典範改正でもボロ負けしたわけだが、2月の選挙のときから書いてるように、負けたときにいちばん大事なのは「なぜ負けたか?」をふり返ることだ。
対して「それは相手がズルいからだ、ホントは俺たちは負けてないぞうおおおお!」な人たちが相変わらず嘶いているが、あのね、キミたちはもう学問ごとキャンセルされたの。ちょっとは現実見たほうがいいよ(笑)。

それでは実際、なんで負けたのか。歴史上の皇位継承のあり方を「ジッショー!」して、だから女帝や女系があってもいいはずとする論法は、今回まったく政治を動かさなかった。その理由を問うことにこそ、鍵がある。
室町時代に分かれ37親等前後も遡らないと皇室につながらない旧宮家の子でも、男系、つまり “父親” が男子を産ませ、その子が父になってまた産ませ…が続いていれば、ホンモノの後継者だとする発想は、どこから来るのか。

それは本来、中国・朝鮮の家族規範のあり方で、かの地ではかつて王様の系統に限らず、あらゆる国民がそうやって相続した。日本人からすると異様に見えるが、そんな社会もあると知っておく意義は、いま意外と深い。
前回もご紹介した連載「あの熱狂の果てに」では、これについて、

日本では伝統的に男子がいない場合、養子や婿養子を自由に選べるが、朝鮮半島では姓を同じくする「父方の親戚の男子」しか、養子にとることができなかった。
いかに遠縁でも「男系男子」を探せとする価値観は、日本では皇位継承以外の話題ではまず聞かない。しかし朝鮮では同じ規範が、君主に限った話ではなかったのだ。
なので一般に、韓国の家族規範は「父系血縁」に基づくとされ、本人たちもそう思っている。
9頁(強調を追加)
という風に、書いている。逆にいうと、(特に明治期に)中国・朝鮮の儒教型の君主制を導入した天皇家だけを例外として、日本の家は「血縁を重視しない」というのが、学界の通説だった。だって、血縁がなくても養子にとれるんだから。
ところが、である。そう単純ではないらしい。
中国や朝鮮の家族規範を支えてきたのは、儒教である。「礼」を重んじる儒教では、正規の婚礼を行った上で生まれた子と、それ以外の関係から生まれた子〔いわゆる庶子〕は同じではない。
(中 略)
逆に生物学的な父親が同一なら、庶子であれ「血はつながっている」と考えたのは明治の日本だ。嫡子とのあいだに差別はあったが、父が認知さえすれば庶子にも財産を相続し、家を継ぐ可能性が残されていた。戦前は欧州でも嫡子にしか相続を認めない例が多く、当時の日本人はこうした庶子への「寛容さ」を、社会政策として誇ってもいた。妻以外の女性に産ませた子も父親に責任を負わせて、扶養者のいない状態になるのを防ぐというわけだ。
9-10頁
家を継ぐにあたっては「実の父親がだれか」だけが大事で、産んだ女性の立場なんて二の次だ、といま言ったら、大ごとである。ところが戦前の民法は、実際にそんな発想で書かれていて、その意味で男系偏重だった。
『Wedge』で今回採り上げているのは、植民地期の朝鮮半島で「日韓の家族規範がどう衝突したか」をたどった、吉川美華氏の著書である(昨年刊)。こうした経緯を踏まえた同書の結論は、以下のとおり、痛烈なものだ。
近代日本は、異姓養子を行うことから血統を重視しない文化であるとの自己認識を持っていた。しかしながら、……婚姻外の子も家督相続の候補対象となり、父子の生物学的つながりが世代承継の一要因として認められていた。
実際に明治民法では家督相続において、庶男子が嫡男子に次ぐ相続順位であることを社会政策に適合して居ると評価され、その風俗を「頗る寛優」なものと考えられており、社会通念として庶子の地位は西欧や朝鮮と比較して優遇されていた。
(中 略)
これらの観点について、婚姻を軸に再考した場合、近代日本は血統を重視しないのではなく、婚姻を重視しないとの評価が可能である。
438-9頁(段落を改変)
なんでも安易にミソジニー呼ばわりすればいいわけではないが、「父親ー息子」の男だけのリンクを連ねることばかり重視する家族観は、夫と妻とが対等なパートナーとして婚姻を結ぶ発想とは、相容れないところがある。
昨夏にも触れたように、日本の農村では「家を継ぐ男子」以外を結婚させる余裕がないため、長男が死亡したらその妻を弟と再婚させるみたいな話が、敗戦後まで平気であった。女性の気持ちとかはガチでシカトだったのだ。

この意味で、今回の「うおおお男系男子ONLY!」な皇室典範改正は、まぁ天皇に関しては伝統とかいろいろあるから、な限られた問題ではない。
それは、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有する」(24条)といった憲法が象徴する戦後的な価値観を覆して、”イエ制度+儒教” という戦前のそれに復古しようとする、日本版の原理主義の一環である。

わかりやすく喩えれば、ちょうどトランプとキリスト教原理主義の関係にあたる。しかし、サナ活の熱狂はMAGAよりずっと低いのに、高市政権の支持率は目下のトランプよりなお高く、まして議会に占める勢力は圧倒的だ。
どうして、そんなことになるのか。
対抗勢力が無能で、かつ道徳的に低劣だからである(苦笑)。彼らが育てた「うおおお女性を要職に!」な支持層は、初の女性首相の側に寝返り、そのほか大勢も彼らの二枚舌ぶりを日々に見て、愛想を尽かしていった。

神による天地創造を信じる人に、いやファクトとしてサルから進化しましたと言っても意味がないように、歴史学者によるジッショーもまったく無力になった(涙笑)。同じ道を突き進めば、今後も連敗が続くだけだろう。
いまや史実のジッショーでドヤる学者は、沈みゆく “歴史” というタイタニック号で席取り合戦をしているようなものだ。そうではなく、そもそも船が「なぜ沈んでいるか」を考え、語れる人だけが歴史家の名に値する。
もちろんぼくがその稀少なひとりで、答えは秋に出す『なぜ「まちがえた」と言えないのか』に書くつもりだが、さしあたり今回の連載はこんな風に結んだ。もういちど歴史が、この社会で意味を持つ日が来ることを願って。
歴史とは絶えず、磨かれる鏡である。新たな史実が発掘されると、現在の像もこれまでとは違って映る。しっくりと来る自分の姿は、その積み重ねの先にしか待っていない。
前掲『Wedge』8月号、10頁
参考記事:


編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年7月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください







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