『誤解だらけの沖縄と領土問題(増補改訂版)』((清談社)からの抜粋。今回は沖縄戦についてである。
沖縄戦の被害と戦場化の経緯
太平洋戦争における沖縄地上戦では、県民の4分の1に当たる15万人が亡くなったとされ、摩文仁の丘にある「平和の礎」にその名が刻まれている。広島に投下された原爆による死者は14万人とされており、ほぼ同規模である。

沖縄本島に上陸するアメリカ軍海兵隊 Wikipediaより
しかも、沖縄ではインフラの被害がはるかに大きく、その後30年にわたりアメリカ軍の施政権下に置かれたことを考えれば、その苦難は広島以上だったといって差し支えない。
太平洋戦争開戦当初、沖縄はそれほど重要な戦略拠点ではなかった。しかし、太平洋の防衛線が後退する中、1943年ごろから台湾とともに飛行場の建設が進められた。
政府は住民の疎開を計画したものの、米軍潜水艦による攻撃で対馬丸が撃沈され、約1500人が犠牲となるなどして、疎開は十分に進まなかった。最終的に本土へ6万人、台湾へ2万人が移ったが、それでも45万人の県民が残り、その多くが後に激戦地となる中南部に集中していた。
さらに、精鋭だった第9師団は10月10日の空襲後、フィリピン戦線支援のため台湾へ転出し、沖縄の守備兵力は11万人いたものの、その戦力は決して高いものではなかった。
南部撤退が招いた住民の悲劇
1945年4月1日、米軍は沖縄本島中部西海岸に上陸したが、日本軍はほとんど抵抗しなかった。上陸後に持久戦・ゲリラ戦を展開し、本土決戦までの時間を稼ぐことが目的だったからである。
4月8日から南部では激戦が始まり、首里が陥落する5月末まで壮絶な戦いが続いた。このとき島田叡知事は、「武器弾薬も十分な首里で玉砕せず、摩文仁へ撤退して住民を巻き込むのは愚策だ」と反対した。しかし、牛島満司令官は「第32軍の使命は本土作戦を1日でも有利に導くこと」として南部撤退を強行した。

牛島満司 Wikipediaより
日本軍はガマと呼ばれる自然洞窟に立てこもったが、そこにはすでに多くの住民が避難していた。その結果、日本軍によって住民が追い出されたり、集団自決に追い込まれたり、降伏しないまま生き埋めや火炎放射器による攻撃を受けたりするなど、多くの民間人が犠牲となった。
「軍命」がなくても消えない日本軍の責任
これらの悲劇について、軍上層部から直接命令が出ていたわけではない。しかし、「アメリカ軍は残虐だ」「投降は非国民だ」といった教育が徹底され、末端の将兵が住民に自決用の手榴弾を渡したり、一緒に死ぬよう勧めたりしたことは、自発的とは言えない住民の死を招いた。
たとえ組織的命令が存在しなかったとしても、こうした悲劇は十分に予見できたものであり、「日本軍は沖縄を守るために戦った」と評価することはできない。
沖縄戦をめぐっては、教科書検定で「軍の強制」を示す記述が削除された際、保守系の仲井真知事を先頭に沖縄県が強く反発したこともあった。
牛島・大田・島田の評価をどう考えるか
陸軍の牛島満司令官は、「爾後各部隊ハ各局地ニオケル生存者ノ上級者コレヲ指揮シ最後マデ敢闘シ悠久ノ大義ニ生クベシ」と命じて自決し、組織的抵抗は6月22日に終わった。しかし、この曖昧な命令が、その後も沖縄各地で戦闘が続く一因になったと考えられる。
一方、海軍の大田實司令官は「沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電した後に自決したため、牛島より評価は高い。しかし、沖縄県民が自ら望んで戦ったわけではなく、大田中将が県民の犠牲を減らすことに大きく貢献したとも言い難い。

大田實 Wikipediaより
また、島田叡知事が南部への軍の撤退に反対したことは事実である。しかし一方で、沖縄を戦場化するための準備に関わったことも否定できず、単純に善玉として評価することにも違和感がある。牛島満には弁護の余地はないが、大田実や島田叡についても、単純な善悪で語ることはできない。

島田叡 Wikipediaより
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