
ぼくは2007年の秋から、7年ほど大学で教えていたことがあるのだが、就職後もしばらく院生時代から参加していた研究会に、メンバーとして出続けていた。で、たぶん08年かなと思うけど、その席で驚いたことがある。
喋れないのである。言いたいことは思いつくのだが、それを脳内で研究会という場にふさわしい「話し方」にアジャストするのに時間がかかり、やっと口を開こうとしたときには、話題が次に行ってしまってたりする。
大学(に限らないが)の “先生” というポジションになると、授業では聞き手の知識が自分よりも「乏しい」ことを前提に、知らないことを「教える」というスタイルでのトークが中心になる。それはそれでまぁ、大事である。
ところが研究会ではこれと逆に、自分よりずっと詳しい「専門家」かもしれない人と同席しながら、しかし自分としてはこう考えます、という喋り方をしないといけない。この180度のギャップに、戸惑ってしまったわけだ。
で、そんな頃のぼくに、もしタイムマシンがあるなら持っていって「これ読めよ!」と渡してあげたい書籍が、8/5に発売になった。
「常夜の読書会」
雑誌『潮』で2023年から続けてきた、岩間陽子さん(国際政治学)・開沼博さん(社会学)・佐々木俊尚さん(ジャーナリスト)・東畑開人さん(心理学)と、毎回、課題図書を決めて読みあう勉強会を、丸々収録した1冊だ。
日本は「対談本」の文化が豊かな国だが、「読書会」をそのまま再現する企画は多くないと思う。一部の章は、『潮』への掲載時に紹介した、
アインシュタインとフロイト『ひとはなぜ戦争をするのか』

森本あんり『反知性主義』

田中角栄『日本列島改造論』

であり、単行本ではその他に、
・オルテガ『大衆の反逆』
・アリストテレス『弁論術』
・ウェーバー『仕事としての学問/政治』
・ベック『世界リスク社会論』
・井筒俊彦『ロシア的人間』
・高坂正堯『宰相 吉田茂』『平和と危機の構造』
をめぐる議論が加わる、豪華な全9章構成。またメンバー5名による、読書会終了時の「完結の辞」も、もちろん全員の分が再録されている。

本書のタイトルは、読書会が毎回、参加者が本業を終えた後の(って、ぼくはまぁ無職なんだけど)、夕方から対面で開かれたことに由来する。で、SNSや動画配信が全盛の時代だからこそ、ここには大きな意味がある。
オンラインのコミュニケーションでは、話しかける相手に臨在感がない。そんなモノローグ(独話)に近い状況だと、誰しも喋り方が一方向になりがちだ。私が考えてることを「知らないよね? 知ってよ!」という風に。
つまり “先生” じゃなくても――もしそうならなおのこと、「対面なし」の環境は、発話者をナチュラル上から目線に導くのだ。で、それがパニック状況でのニワカな “知識欲” と結びつくと、ご存じの通りロクなことがない。

この秋に出す単著『なぜ「まちがえた」と言えないのか』ではそうして生まれた、SNSでつい「これだけが正解!」と叫び、異論を叩いてまわる人たちの悲喜劇を描くわけだが、今回、改めて確認したいことがひとつある。
去年の秋から(ほとんど自作自演で)「いま、人文知がブーム!」だと売り込む “令和人文主義” なるものが出てきて、ぼくはそれをずっと批判してきたわけだが、いったいどこがおかしいのか。
彼らがしているのは、「専門知」(と称するもの)がゴリ押しで流通した環境を反省することなく、むしろ同じインフラに乗っかって自分の知をばらまく作業だからだ。その態度はちょうど、対面で集う読書会の対極にあたる。

「そんなことはないッ! 令和人文主義は大正教養主義と異なり、親しみやすくフレンドリーに知識を広める運動なんだ!」とゴネそうな人もいる。じゃあ元歴史学者らしく、実証しておこうか。
昨年末も採り上げた人だけど、その令和人文主義の代表だと目される “文藝評論家” が先月、こんな文章を寄せているのが目に入り、驚嘆した。なんていうか、文学のセンモンカはすごい。

これは日本でもっとも有名な小説であろう『ノルウェイの森』の日本でもっとも有名であろう場面のひとつである。えっ、知らない!? そんなばかな。知ってください。講談社文庫です。上下巻で買えます。
三宅香帆氏、『群像』2026年8月号、
414頁(強調は引用者)
これはどんな読者を想定してるの?
掲載誌の『群像』は講談社の文芸誌だから、というかそうでなくても、文藝評論を読む人が『ノルウェイの森』を知らないということはない。しかしそれでも、上から目線の「教えるしぐさ」が板についてしまうと、離れない。
上記の文体は “低い目線” でフレンドリーに見えながら、その実際のメッセージは、想定する読者のレベルを人為的に引き下げれば、あなたも「上から」見下ろす場所に立てますよ、という誘いでしかない。言い換えると、
読書を教える人間が仮にいるとしたら、それは本来山に登る為の技術、装備の使い方や体力づくりを教えるようなものだと言えるだろう。
(中 略)
〔しかし〕大衆迎合者は、山の頂点を地面にひきずりおろす。自分の足で苦労して登るのではなく、山頂を模したオブジェを地上に作って、「これさえ拝めばあなたも山の頂上に登った事になりますよ、ご利益がありますよ、苦労して山に登らなくてもいいですよ」と宣伝してまわる。
ヤマダヒフミ氏、2026.7.18
ということになる。それが供給する “平等感” は、同じ本を読んで論じる上では誰もが対等だという読書会の思想とはまるで異なる、ニセモノだ。
少し前――といってもざっと80年ほど昔に、書物を囲んで自由に論じあうことが「民主主義を育てる」と、素朴に信じられた時代があった。それ以降に生きてる物書きは、誰もが当時の遺産で食べてるようなものである。
逆にそんな民主化なんていらない、「専門家にお任せでいい」として原発事故に至った2011年は “第二の敗戦” とも呼ばれたが、それを言うならコロナは第三、ウクライナは第四の敗戦かもしれない。言う人は少ないけど。
そんな現状から立ち上がるためにこそ、ホンモノの読書が必要になる。いわばそれは、忘れられた “読み方” のルネサンスかもしれない。
ぜひ『常夜の読書会』をヒントに、論じたい本を囲みながら、親しい誰かと対面の読書会を開いてみてほしい。「次はちょっと、趣向を変えた飲み会にしようよ」。そうした実践が本書から広まることを、強く願っている。
参考記事:


編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年8月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください








コメント