8月15日に終わらなかった戦争:占守島と消された蛍の光の4番目の歌詞

8月15日の「終戦の日」が過ぎた。

テレビでは今年も戦争特集が組まれ、各地で戦没者が追悼された。しかし、その3日後の8月18日にも、日本軍とソ連軍が激しい戦闘を続けていたことは、ほとんど話題にならない。

2026年8月18日で、占守島の戦いから81年を迎えた。

私は毎年8月15日を迎えるたびに、一つ引っかかることがある。

日本の戦争は、本当に8月15日に終わったのだろうか。

日本政府がポツダム宣言受諾を国民に伝えた日として、8月15日には大きな意味がある。しかし、それを境に戦争から平和へ一瞬で切り替わったように考えると、そこからこぼれ落ちる歴史がある。

その代表が、千島列島最北端の占守島である。

玉音放送の3日後、ソ連軍が上陸した

1945年8月18日未明、ソ連軍は占守島へ上陸した。

占守島はカムチャツカ半島南端から約12km。1875年の樺太千島交換条約以降、日本とロシア、そしてソ連が向き合う北の国境だった。

日本軍はすでに敗戦を知っていた。それでも目の前から武装した外国軍が上陸してくる。大本営は「一切の戦闘行動を停止す。但し已むを得ざる自衛戦闘を妨げず」とし、完全徹底の時期を18日16時としていた。

そこで激しい戦闘を行った部隊の一つが、池田末男大佐率いる戦車第11連隊である。「十一」を縦に重ねると漢字の「士」に見えることから、「士魂部隊」と呼ばれた。この名称は現在の陸上自衛隊第11戦車隊にも「士魂戦車隊」として受け継がれている。

第11戦車隊

戦争末期の日本軍というと、サイパン、硫黄島、沖縄と甚大な損害を出した敗戦が思い浮かぶ。占守島は様相が違った。井澗裕氏が紹介するソ連軍の「戦闘行動日誌」では、8月18日だけでソ連軍は戦死516人、負傷716人、不明325人、計1557人の人的損害を報告している。日本側の損害数には資料による差があるため単純比較は避けるべきだが、1945年8月の日ソ戦において、攻撃側ソ連軍がこれほど大きな人的損害を負った占守島は極めて例外的な戦闘だった。

だが、ここで「日本軍最後の大勝利」という英雄物語にしてしまえば、本当に重要な点を見失う。

問題は、敗戦を知った軍隊が、なぜその3日後にも戦わなければならなかったのか、である。

戦争は、玉音放送と同時に全国一斉に電源が落ちるように終わったわけではない。

スターリンは北海道北部への進駐を要求していた

占守島の戦いを考えるうえで、もう一つ忘れてはならない事実がある。

1945年8月16日、スターリンはトルーマン米大統領に対し、日本軍がソ連軍へ降伏する地域として北海道北部を加えるよう正式に要求している。

しかも単なる希望ではない。北海道を釧路から留萌へ結ぶ線で南北に分け、その北側をソ連軍の受降地域とする具体的な内容だった。

もし実現していたら、旭川、稚内、網走などはソ連軍が進駐する地域に入った可能性がある。戦後日本の地図は、現在とは違っていたかもしれない。

これは荒唐無稽な「歴史のもしも」ではない。敗戦後のドイツは米英仏ソ4か国の占領地域に分けられ、のちに東西ドイツへ分断された。朝鮮半島も北緯38度線を境に米ソの受降・占領地域に分けられ、その分断はやがて南北二つの国家へつながった。

戦後のドイツや朝鮮半島を見れば、敗戦した日本が南北あるいは東西に分割されず、一つの国家として残ったことは決して当然の帰結ではない。

一方で、「占守島で日本軍が抵抗したから北海道分割が阻止された」とまで言うのは飛躍である。トルーマンは北海道へのソ連軍進駐要求を拒否した。米国の外交判断という大きな要因を無視することはできない。

それでも、8月15日の時点で現在の日本の国境も、占領の形も、すべてが確定していたわけではない。終戦とは一日ではなく、過程だったのである。

「千島の奥も沖縄も」

この占守島を考えていると、ある歌が頭に浮かぶ。『蛍の光』である。

今では1番と2番しかほとんど歌われないが、かつて4番には「千島の奥も 沖縄も」という歌詞があった。続いて「八洲の内の 護りなり」と歌われる。

歌詞はその後、日本の領域変化に伴って「沖縄」が「台湾」へ、「千島」が「樺太」へと変化していった。現代から見れば、近代日本の国家観を強く反映した歌詞である。

それでも興味深いのは、かつて日本人が北の千島と南の沖縄を一つの歌の中に並べていたことである。

1945年、日本の南では沖縄戦が行われた。そして北では、玉音放送から3日後に占守島の戦いが始まった。

沖縄戦を知らない日本人はほとんどいないだろう。では、占守島を「しゅむしゅとう」と読める人はどれだけいるだろうか。

同じ歌詞に登場した日本の南北の端でありながら、その後の記憶には大きな非対称が生まれた。

なぜ占守島は忘れられたのか

占守島が知られていない理由を一つに決めることはできない。

島が戦後ソ連の支配下に入り、日本人が自由に訪問できなくなったこと。戦闘後、多くの日本軍将兵がシベリアへ抑留され、戦闘直後の日本側記録が乏しかったこと。そして、戦後日本社会にとって「8月15日=戦争の終わり」という物語が非常に分かりやすかったこともあるだろう。

井澗氏は占守島の研究を通じ、日本の戦争記述がまず見直すべきものとして「8月15日史観」を挙げている。

8月15日を「終戦の日」とすることが間違いなのではない。8月15日だけを見て、日本の戦争の終わりを理解したつもりになることが問題なのである。

南樺太でも戦闘は続いた。千島ではソ連軍が南下した。日本が降伏文書へ署名したのは9月2日であり、その後もソ連軍は歯舞群島まで進出した。

戦争と平和の間には、私たちが学校で習うよりも曖昧な時間が存在していた。

「終戦の日」の3日後も覚えておきたい

占守島を日本軍の英雄譚にする必要はない。逆に、日本軍だったという理由だけで記憶の外へ追いやる必要もない。

彼らは8月15日に敗戦を知った。生きて帰れると思った兵士も多かっただろう。その3日後、再び戦車を動かした。

それは勝つための戦争ではなかった。国家が降伏へ向かう一方で、自分たちのいる島へ外国軍が上陸してくるという、終戦期特有の矛盾の中で起きた戦闘だった。

かつて日本人は「千島の奥も 沖縄も」と歌った。

現在、その4番はほとんど歌われない。そして奇妙なことに、千島で起きた戦争の最後の局面も、日本人の記憶から薄れている。

8月15日の追悼が終わった今だからこそ、8月18日のことも思い出してよい。

戦後のドイツや朝鮮半島を見れば、現在の日本が分割されず、一つの国家として残ったことも歴史の必然ではなかった。

日本の戦争は、8月15日に線を引いたようには終わらなかった。占守島で砲声が響いたのは、その3日後だったのである。

【出典】

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