世界では「神会議」とか「メシア会議」といった名称の国際会議がある。「神会議」には様々な宗派の神の代表が参加し、「メシア会議」には自称救世主を名乗る宗教者が集まり、世界の諸問題の解決策について話し合う。

フリードリヒ・ニーチェの肖像(1882年)Wikipediaより
ところで、21世紀の現在、何人のメシアが地上に生きているのだろうか。世界の紛争が終わり、平和が実現できるのならば、メシアと呼ばれる救世主は多いほどいい。志のある人はメシアと名乗って世界の平和実現のために率先して活動して頂きたい。ただ、過去の歴史を振り返ると、楽観的にはなれない。メシアと宣言する宗教家が他のメシアと名乗る人物と戦い、殺害し合うことが少なくなかったからだ。宗教は平和をもたらすのではなく、戦いを拡散する手段として利用されてきたことが多かった。
ウィーンは19日、気温が久しぶりに30度以下と低い。そこで少し宗教について雑談したい。
唯一神教の神は‘妬む神‘といわれてきた。唯一神を崇拝する信者が他の宗派の神を拝むようなことがあれば、一大事だった。唯一神は異教の神を信じる者たちを滅ぼせと命令する。幸い、人類の歴史は心霊が高まるにつれて次第に理性的になってきた。そして連帯、共存の道を模索し出した。ただ、宗教間のいがみ合い、不和は依然根絶されていないから、時には暴発する。
唯一神の代表は「アブラハムの神」だ。アブラハムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3大唯一神教から「信仰の祖」と呼ばれてきた。異教の地から神に召されたアブラハムは、神から「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう」(創世記12章)と祝福された。神の祝福を受けたアブラハムはその神の約束を素直に受け、カルデヤのウルから出て神の示す地に出かけた。神の祝福はアブラハムからイサク、そしてヤコブと継承する、神はヤコブにイスラエルという名称を与え、それからイスラエルの歴史が始まった。アブラハムはヘブライ語で「多数の父」を意味する。
興味深い点は、ここにきて「スピンザの神」が注目されてきたことだ。 バールーフ・デ・スピノザは1632年11月、オランダのアムステルダムの裕福な貿易商のユダヤ人の家庭に生まれ、将来はユダヤ教会のラビになると期待されるほど、優秀な若者だったが、後日,正統派のユダヤ教会から「神を侮辱する人間」としてオランダのユダヤ人コミュニティからへーレム(破門)された哲学者だ。スピノザは汎神論者と言われた。彼は「神は自然だ」と主張し、聖典の人格神は信じなかった。「アブラハム・イサク・ヤコブの神」を信じる有神論者からみれば、「スピノザの神」は明らかに異なっていた。ちなみに、理論物理学者アルベルト・アインシュタイン(1879年~1955年)は「教会が主張する神は信じられないが、スピノザの神ならば信じられる」と告白したという。
欧州のキリスト教社会で忘れることが出来ない人物はドイツ哲学者フリードリヒ・ニーチェ(1844~1900年)だ。「神は死んだ、私たちが神を殺した」と指摘したニーチェは厭世家で反キリスト教的人生観の思想家といったイメージが付きまとうが、実際はその逆だ。ニーチェ哲学は現在、人間自身が新しい価値観を創造して進化する力への意思を説く生の哲学と呼ばれている。
「神は死んだ」ということは、神はその前には生きていたことを意味する。神は社会生活では共通の価値観、世界観だった。その神が死ねば、当然、価値観、人生の意味を失う。価値観の最高の保証人である神を失った結果、人間は価値や意味のない世界に放り出されたわけだ。
ニーチェは近代社会から価値、意味を奪ったが、そこで留まっていない。新たな価値観を見出すべき「超人」の道を模索しだす。これはニーチェの「超人思想」だ。 ニーチェのいう「超人」(Ubermensch)とは、既存の価値観や規範に囚われず、自らの力で新たな価値を創造し、常に自己を超克し続ける人間のことだ。安楽や平穏ではなく、自己の成長と創造を追求する強い意志を持つ存在という。そして「永却回帰」で苦しい過去も楽しい過去もすべて肯定的に捉え、その過去を踏まえてこれから最善の行動をとるべきだと主張しているのだ。幸せになるためにはその過去を肯定的に捉えるしかないというアドバイスだ。
「アブラハムの神」がその生命力を失ってきた一方、無神論者と不可知論者が増えてきた。同時に、ニヒリズムが拡散してきた。欧州社会では実用的な不可知論(Agnosticism)と宗教への無関心が次第に広がってきた。英国から「神はいない」運動が欧州全土に拡散してきた。十字架は学校や公共場所から追放され、人間は一個の細胞とみなされ、金銭的な評価で価値が決定される。
不可知論とは、神の存在、霊界、死後の世界など形而上学的な問題について、人間は認識不可能であるという神学的、哲学的立場だ。それゆえに、神の存在を否定しないが、肯定もしないという立場を取る。欧州の知識人の中には、「無神論者」であることをカムフラージュするために不可知論者を装うケースが少なくない。彼らにとって、不可知論は居心地がいい避難場所だ。「神を信じる者」からも「信じない人」からも、一定の尊敬を勝ち得ることが出来るからだ。なお、不可知論者を聖書的に表現すれば、「熱くもなく、冷たくもない、生ぬるい人」といえるかもしれない。
本当の無神論世界観はカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが「共産党宣言」を宣布して始まった。唯物主義が台頭し、神は追放され、「宗教はアヘン」として蔑視されていく。人は精神的存在ではなく、高度に発展し、進化した物質的存在と見なされていった。ここに現代人が考える「無神論者」が生まれてきたわけだ。その意味で、共産主義思想の登場は歴史的出来事だった。それまでは、自身が信じる神と「他の神」との戦いの歴史が久しく続いてきたが、その後、共産主義と神との本格的な戦いの幕が開いたのだ。
共産主義が登場して以来、もはや宗教戦争はなくなった。厳密にいえば、共産主義が自身の勢力を拡大するために宗教間の戦いを煽ってきた。実相は共産主義と神との代理戦争だ。キリスト教会の分裂、スンニ派とシーハ派の戦いも共産主義勢力が背後で煽っている。その戦いは、政治、経済、科学の世界だけではなく、文化の世界にまで広がっている。戦いの檜舞台は米国社会だ。終末時のハルマゲドンの戦いというべきだろう。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2026年8月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。







コメント