豊臣秀吉はなぜ関白になったのか

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第36回「姫和子と鬼和子」(2026年9月20日本放送)では、豊臣秀吉の関白任官が描かれた。

この経緯は、かつては歴史学界でも、秀吉は武家源氏ではないため、そのままでは征夷大将軍になれず、将軍足利義昭の猶子になろうと図るも、出自の卑しさゆえに拒絶されたために、やむなく関白になったといった挫折の物語として語られてきた。

しかし、秀吉が足利義昭に猶子入りを求めたという形跡は、一次史料からは確認されない。この話の出所は、徳川家康お抱えの儒学者である林羅山の著した『豊臣秀吉譜』であると見られる。林羅山は家康を顕彰するため、将軍に就任した家康と異なり、秀吉は将軍になることができなかったという話を創作したのであろう。

一次史料からは、林羅山の主張とは正反対の事実が浮かび上がる。多聞院英俊の日記である『多聞院日記』の天正12年10月16日条によれば、小牧・長久手合戦を終えた秀吉に対して朝廷(正親町天皇)から「四位の大将に任じ将軍の官を兼ねる」ようにとの任官打診があったが、秀吉はこれを断り、五位の少将(従五位下・左近衛権少将)に留まったという。これに従えば、秀吉は将軍に就任することが可能であったにもかかわらず、任官を忌避したことになる。

平姓を名乗る織田信長に対して朝廷が三職推任(将軍・関白・太政大臣のいずれかに任官するよう勧めたこと)を行ったことが示すように、源氏でなければ将軍になれないといったルールは存在しなかった。朝廷側にとって、武家の実力者が将軍に任官する際に、氏素性は大きな障壁ではなかったのだ。

秀吉が将軍職という武家官職を意図的に回避した戦略的意図は、室町幕府が内包する歴史的・構造的制約を断ち切ることにあった。将軍職に就くことは、室町幕府が築き上げた武家法制(室町幕府法)や、旧来の武家社会の家格秩序に拘束されることを意味した。秀吉が志向したのは、将軍=武家の棟梁という「武家の中の第一人者」にすぎない地位ではなく、公家・武家・寺社のすべてを等しく支配下に置く「超越的な統治者」であった。

天正13年(1585年)、関白二条昭実と左大臣近衛信輔の間で関白の地位をめぐる「関白相論」が勃発すると、秀吉は右大臣の菊亭晴季を介して緻密な朝廷工作を展開した。秀吉は相論を調停する体裁をとりつつ、近衛前久の猶子となる手続きを進めて、非藤原氏による関白就任という未曾有の事態を現出させたのである。

秀吉の関白任官は従来の身分秩序を無視した型破りなものだったが、秀吉には躊躇いや後ろめたさは一切なかった。後年、秀吉は、五摂家(藤原氏の頂点に位置する近衛・九条・一条・二条・鷹司の五家)による関白職の持ち回り慣行を厳しく批判している。自分の所領すら満足に支配できていない五摂家よりも、実際に天下を切り従えている自分の方が、天皇の代理人たる関白にふさわしいというのである(『駒井日記』文禄3年4月13日条)。ここからは、秀吉の徹底した実力主義の思想、自身の武威に対する絶対的な自信が読み取れる。

けれども、近衛家の猶子という立場である以上、関白の地位は秀吉一代で終わり、秀吉死後は再び藤原氏に関白が戻ることが予想された。そこで秀吉は後に、朝廷から「豊臣」という新しい姓を獲得し、豊臣家による関白職世襲の道を開いた。その後、天正16年(1588年)に出家した足利義昭が正式に将軍職を返上し、朝廷から准三宮の待遇を受けたことで、名実ともに中世的な幕府権力は消滅し、豊臣公儀による新たな国家体制が完成した。

関白となった秀吉は、天皇の代理人という絶対的な権威を背景にして、「武家関白」という新たな国家統治の軸心を作り上げた。秀吉が大名同士の私戦を禁じた惣無事令は、秀吉の個人的な命令ではなく、天皇の意向である「叡慮」を代行する「公儀」(公権力)の立場から発令されたものである。この絶対的な正統性により、命令に従わない者は「公儀」に対する反逆者として討伐する大義名分を得ることができた。

太閤検地や刀狩といった全国規模の強力な社会変革も、既得権者との合意形成という中世的な手法とは異なる、天皇の代行者としての絶対的な行政執行として断行された。秀吉が関白を選んだのは、将軍任官の道を断たれたがゆえの次善の策、消極的な妥協策ではなく、既存の武家政権の枠組みを解体し、天皇の権威を利用して近世的な中央集権体制を創出するための積極的な選択だったと言えよう。

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