「玉川発言」への批判、謹慎処分は正当なのか

テレビ朝日本社社屋
出典: Wikipedia

放送コンプライアンスの視点から考える

「羽鳥慎一モーニングショー」のレギュラーコメンテイター玉川徹氏が、安倍元首相の国葬の翌日の9月28日の番組で、菅前首相の追悼の辞に関して「電通が入っていますからね」と発言したことについて、実際には、電通は国葬に一切関わっていないことが判明したとして、翌日の番組で玉川氏が訂正・謝罪し、その後、テレビ朝日から10日間の謹慎処分を受けた。

「菅前首相の追悼の辞」は、参列者の涙を誘い、「葬儀」としては異例の拍手が行われるなど、心を打つものと好評だった。それに対して否定的なコメントをした玉川氏が訂正・謝罪に追い込まれたことで、保守派の言論人、芸能人・タレントなどによる玉川氏批判が行われ、それを受けるように、テレビ朝日が玉川氏への謹慎処分と番組関係者の社内処分を発表した。

SNS上では、「玉川氏への謹慎処分が生温い」として番組降板などを求める声が上がる一方、玉川氏を擁護する声、謹慎処分に抗議する声も上がっている。

また、自民党の西田昌司参院議員が、玉川氏の発言へのテレビ朝日の対応に関して

「国民は、政治的に公平だという前提でテレビを視聴する。虚偽の情報を事実として伝えることは危険な『政治的偏向』だ。テレビ朝日は、玉川氏個人の事実誤認としているが、本当にそうか。組織として詳細な経緯を説明する責任がある」

などと批判し、

「極めて重大な問題で国政の場でも強く提起したい」

などと述べた(夕刊フジ)。

これに対して、ジャーナリストの江川紹子氏が、ツイッター上で

「与党議員が『国政の場』に持ちこむ話ではない。電通や菅氏がこの処分に不満であれば、BPOに申し立てればよい」

と批判している。

このように大きな騒ぎに発展している玉川氏の発言に、どのような問題があるのか、番組での訂正・謝罪に加えて、発言者個人の謹慎処分、社内処分まで行われたことは適切だったのか、その後も続く批判が正しいのかなどについて考えてみたい。

放送内容の真実性、政治的公平についての放送法の規定

「政治的中立性」「真実ではない放送」について、放送法は、以下のように規定している。

まず、「放送番組の編集」について、4条で、

放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない。

二 政治的に公平であること。

三 報道は事実をまげないですること。

として、「事実の捏造・歪曲」などをすることを禁止した上、9条1項で

放送事業者が真実でない事項の放送をしたという理由によって、その放送により権利の侵害を受けた本人又はその直接関係人から、放送のあつた日から三箇月以内に請求があつたときは、放送事業者は、遅滞なくその放送をした事項が真実でないかどうかを調査して、その真実でないことが判明したときは、判明した日から二日以内に、その放送をした放送設備と同等の放送設備により、相当の方法で、訂正又は取消しの放送をしなければならない。

として、「権利を侵害された者」「直接関係人」からの請求による調査と、それに伴う訂正・取消を規定し、2項で、

放送事業者がその放送について真実でない事項を発見したときも、前項と同様とする。

として、放送事業者側の自主的な調査、訂正・取消を規定している。

一方、4条2号の「政治的中立性」については、9条のような調査、訂正・取消の規定はなく、5条により「番組基準」の公表が義務付けられ、6条で放送番組審議機関が設置され、放送番組の適正を図るため必要な事項を審議、放送事業者に対する意見を述べるとされており、放送の適正のための一般的な枠組みに委ねられている。

問題とされた玉川氏の発言

今回の玉川氏の発言について問題とされたのは、

(1)国葬が演出によって作られていること
(2)演出に電通が関わっていること

の2点である。

事実に関する2点のうち、(2)の電通の関わりについては、「放送をした事項が真実でないことが判明した」として訂正放送が行われた。この事項について、「権利の侵害を受けた本人又はその直接関係人」に該当するとすれば電通だが、電通からの請求があったのかどうかは不明だ。電通からの請求はなく、テレビ朝日が自主的に調査、訂正・取消をしたということであれば、9条1項ではなく、2項によって行われたものということになる。

そもそも、電通が、安倍元首相の国葬に関わっていないのに関わっていると言われたとしても、それによって、電通の権利がどのように侵害されるのだろうか。「権利侵害性」のレベルと比較しても、テレビ朝日は訂正放送を行っており、十分な措置だったと言える。

一方、(1)の演出については、上記のように、玉川氏の発言に対して反発し、批判している人の多くは、「参列者に感銘を与えた菅氏の素晴らしい追悼の辞」に対して、演出が入っているなどと言って「貶めた」として批判しているようだ。

問題となるのは、この点についての玉川氏の発言の趣旨だ。多くの批判で前提とされているように、「菅氏の追悼の辞に演出が入っている」という意味なのかどうかである。

この点に関しては、直接的に問題とされた上記発言だけでなく、そこに至るまでの玉川氏の発言全体を踏まえて考えてみる必要がある。以下が、関連する玉川氏の発言全体だ。

「これこそが国葬の政治的意図だと思うんですよね。当然これだけの規模の葬儀、儀式ですから、荘厳でもあるし、個人的に付き合いのあった人は、当然悲しい思いをもってその心情を吐露したのを見れば、同じ人間として、胸に刺さる部分はあると思うんですよ。

しかし、例えばこれが国葬じゃなくて、内閣葬だった場合、テレビでこれだけ取り上げたり、この番組でもこうやってパネルで取り上げたりVTRで流したりしないですよね。国葬にしたからこそ、そういった部分を我々は見る、僕も仕事上見ざるを得ない状況になる。

それは例えれば、自分では足を運びたくないと思っていた映画があったとしても、なかば連れられて映画を見に行ったらなかなかよかったよ、そりゃそうですよ、映画は楽しんでもらえるように胸に響くように作るんです。だからこういう風なものも、我々がこういう形で見れば胸に響くものはあるんです。それはそういう形として国民の心に既成事実として残るんですね。これこそが国葬の意図なんですね。だから僕は国葬自体、ない方がこの国にはいいんじゃないか、これが国葬の政治的意図だと思うから。

僕は演出側の人間ですからね。演出側の人間としてテレビのディレクターをやってきましたから、それはそういう風に作りますよ。当然ながら。政治的意図がにおわないように、制作者としては考えますよ。当然これ、電通が入ってますからね」

玉川氏は「菅氏の弔辞が他人の演出」と言っているのではない

発言全体を見ると、玉川氏が「そういう風に作りますよ」と言っているのは、「胸に響くように作る」ということだとわかる。それは、映画などを含め、大規模なイベント、コンテンツの制作を行う側としては、一般的に行われる演出のことを意味するものだ。

今回の安倍氏の国葬も、大規模な荘厳な葬儀・儀式なのだから、その中で、「個人的に付き合いのあった人は、当然悲しい思いをもってその心情を吐露したのを見れば、同じ人間として、胸に刺さる部分はある」と述べている。

菅首相の追悼の辞は「心情を吐露した」ものであり、それが「胸に刺さる」と評価した上で、ただ、それは、全体として「胸に響くように作られた国葬という儀式の一コマだ」と言っているのである。玉川氏の発言の「そういう風に作ります」というのは、菅氏の追悼の辞が「演出のために他人が作ったもの」という意味で言っているのではない。

むしろ、「これこそが国葬の政治的意図だ」と言った上で、「そういう風に作ります」に続けて、「当然ながら。政治的意図がにおわないように、制作者としては考えますよ。」と言っていることから、玉川氏の発言全体の趣旨としては、安倍氏の国葬が「政治的意図を隠して、胸に響くように作られた儀式」というものであり、それを前提に、発言に問題がないかどうかを検討する必要がある。

問題となるのは、第一に、「真実性」に関する点として、玉川氏の「政治的意図を隠して、胸に響くように作られた儀式」との指摘が、客観的に正しいと言えるのか、第二に、「政治的公平」に関して、「国葬についての論評」としてみたときに、玉川氏の発言を含む番組が、政治的に偏ったバランスを欠く放送になるのか否かである。

「政治的意図を隠して、胸に響くように作られた儀式」だったと言えるか

まず、第一の点については、玉川氏の長年のテレビ放送の制作者としての経験から、イベントやコンテンツが「胸に響くように作られる」という一般的な事実を指摘している。そして、それが、大規模で荘厳な国家的儀式としての「国葬」と重なると、追悼する安倍元首相の評価を高めるという「政治的意図」が実現される、ということを言っている。

しかし、その場合、そのような「政治的意図」が表に出てしまうと、「胸に響くように作る」という演出効果を損なってしまうので、それが目立たないように配慮することになるということであろう。

ここまでは、一般論として言えることなのであるが、問題は、今回の安倍元首相の国葬についても、「政治的意図を隠して、胸に響くように作られている」と言えるのか、そのように言う根拠があるのか、という点である。

まず、客観的な事実として、安倍氏の国葬については、(電通は関わっていないとしても)、ムラヤマという「桜を見る会」に関する業務を毎年受注していた会社が、企画演出業務を1.7億円で受注している。しかも、この発注については、入札参加の条件を厳しくした結果、一者入札になったものである(【「安倍氏国葬儀」企画演出業務発注で、内閣府職員に「競売入札妨害罪」成立の可能性】)。

そのような高いハードルを設定した理由が、「企画演出」を十分に行い得る業者に発注しようとする意図によるものであったことは間違いない。その事実からも、国葬全体が、「演出」を重視して行われたことは明らかであろう。

肝心の、菅氏の追悼の辞も、改めて全文を文章で読み直してみると、友人代表の辞にしては、生前の安倍氏との具体的なエピソードは、焼き鳥屋で総裁選への再挑戦を説得した場面ぐらいで、それ以外は、ほとんどが、安倍氏の業績と決断力への賛辞だ。

そして、参列者に感銘を与えたというのが、山縣有朋が詠んだ歌の話だ。

衆院第1議員会館1212号室のあなたの机には読みかけの本が1冊ありました。岡義武著「山県有朋」です。ここまで読んだという最後のページは端を折ってありました。そしてそのページにはマーカーペンで線を引いたところがありました。

という話を聞くと、誰もが、菅氏自身が、安倍氏が亡くなった後に、議員会館の部屋に行って、机の上に「読みかけ」で置いてあった山縣の本を発見し、手にとったら、安倍氏が読みかけていた箇所が、いみじくも「伊藤博文が暗殺された際に山縣が詠んだ歌」の個所だったという「感動のシーン」を想起する。

しかし、そもそも、そのような偶然が起こるとは常識的には考えにくい。文章で確認すると「読みかけの本が1冊ありました」となっており、菅氏が、それを「見た」とは言っていない。実は、その話は、安倍氏自身が、殺害される3ヵ月前に、葛西敬之氏の葬儀の際の追悼の辞で使っていたことも明らかになっている。

菅氏は、この追悼の辞についてテレビ朝日のインタビューに答えているが、質問者は、完全に上記の「議員会館でのシーン」があったものと誤解して質問し、菅氏は、それをはっきりと否定はせず、はぐらかして答えていた。

明治の元勲山縣有朋は、帝国陸軍の礎を作った人で、超保守主義者、反政党主義、反民主主義、普通選挙にも反対していた人だ。そういう考え方の人が詠んだ歌を、安倍元首相への追悼の辞で敢えて持ち出し、自分に重ね合わせる、というやり方には、「政治的な意図」が感じられるが、その「意図」を感動的なストーリーで覆い隠しているとみることができる。

また。この「感動的な話」で菅氏の追悼の辞が終わった直後に、会場から自然に拍手が沸き起こったように言われているが、最初に大きな拍手をした人は前全国市長会会長の松浦正人氏で、安倍氏の殺害後も菅氏と電話で連絡を取り合う間柄であったことが明らかにされている(【菅義偉さんの感動的な弔辞の直後に1人だけ大きな拍手をした人がいた。やがてそれが会場中に広がった】)。

参列者の拍手はこの最初の大きな拍手に誘発されたものであり、それがなければ、「葬儀での拍手」ということは起こり得なかったはずだ。

これらの事実からすると、安倍元首相の国葬が「政治的意図を隠して、胸に響くように作られた儀式」だとする玉川氏の発言にも相応の合理性があり、真実と異なるとは言えない。

「政治的公平」に関する問題

次に、「政治的公平」に関する問題である。

前記のとおり、放送法4条2号は、放送番組の編集について「政治的に公平であること」を義務づけている。これは、番組単位で求められることであり、出演者個人の発言の問題ではない

西田議員は、玉川氏の発言に「虚偽の情報」が含まれていたことを「政治的偏向」だとしているが、玉川氏の発言の中の「電通の関与」の部分が真実ではなかったとしても、それ自体で政治的公平性が問題になるわけではない。

問題になり得るとすれば、安倍氏の国葬に関する玉川氏の発言と番組の編集方針との関係であり、既に述べたように、国葬が「政治的意図を隠して、胸に響くように作られた儀式」だとする玉川氏の発言があったことが、番組全体の「政治的公平」を損なうことになるのかという点である。

そもそも、番組の編集方針の「政治的公平」というのは、番組の内容の一つひとつが全て政治的に中立なものでなければならない、ということではない。その時々の社会の状況、視聴者の問題意識等に照らして、番組全体が、政治的に偏ったものかどうかということである。

玉川氏の発言があった安倍氏の国葬の翌日の「モーニングショー」では、その国葬の決定、実施までの経過、賛否両論について番組で取り上げ、国葬の内容についても、その中で特に菅前首相の追悼の辞に参加者が心を打たれたと評価されたことも紹介した。

そうした中においても、国葬に対しては、世論調査の結果では国民の6割以上が反対するなど、反対が賛成を大きく上回っていたにもかかわらず開催されたものであること、国葬に関して法的根拠や国会の関与がないこと、安倍氏の評価について様々な見方があることなどから、国葬反対の意見にも、十分に理由があることなどを考慮すれば、国葬反対の声の大きさを反映し、批判意見も十分に取り上げることは、むしろ、番組として政治的に公平なスタンスだと言えよう。

そういう意味で、かねてから「国葬反対」の意見を明確にしていた玉川氏が、「イベントは一般的に胸に響くように作られる。それを国葬として行えば、政治的意図を隠して政治的に利用することにつながる」と指摘したことは、番組の中の一つの個人意見である以上、番組全体の政治的公平性という面で、何ら問題になるものではないどころか、むしろ、政治的公平に資するものと言える。

玉川氏の発言を含めた当日の番組が、「政治的公平」の観点から問題があるとは到底言えない。

前記のとおり、放送法は、4条2号の「政治的公平」については、真実性についての9条のような権利侵害を受けた者の請求による調査、訂正・取消の規定がなく、放送番組の適正を図るための一般的な枠組みに委ねている。「政治的公平」の判断が微妙であり、それを外部から問題にすることが、かえって政治的公平を損なうことの弊害を考慮したものだ。

西田議員が、今回の玉川氏の発言について、「政治的偏向」を問題にし、

「極めて重大な問題で国政の場でも強く提起したい」

などと述べていることの方が、放送法の趣旨に反する「不当な政治介入」になりかねない。

西田議員は、いわゆる「椿事件」を引き合いに出してテレビ朝日を批判しているが、椿事件は、1993年、テレビ朝日の報道局長が、日本民間放送連盟の第6回放送番組調査会の会合で、「自民党政権の存続を絶対に阻止して、なんでもよいから反自民の連立政権を成立させる手助けになるような報道をしようではないか」などと政治的偏向報道の疑念を生じさせる発言を行ったという特異な事例である。

今回の玉川氏の発言は、国葬に関する事実の適示と、それに関する個人の論評であり、椿事件のような番組編集全体における政治的意図の問題とは全く異なる。

テレビ朝日のコンプライアンス、ガバナンスの問題

今回の玉川氏の発言については、テレビ朝日において、「電通の関与」が真実ではなかったことについて訂正・謝罪放送が行われ、放送法上十分な対応が行われている。それに加えて、玉川氏の10日間の謹慎処分や番組関係者の社内処分を行ったことは全く理解し難い。

意図的な虚偽、捏造報道の疑いがあるというのであればともかく、誤解によって真実ではない発言を行ったというだけで、出演者の「社員個人」が責任を問われるというのは、過去に殆ど例がないのではないか。そのような処分が当然のように行われるようになれば、放送の現場は萎縮し、積極的に真実に迫ろうとする報道や番組制作自体が困難になってしまう。

最近の同様の事例として、当時の菅首相が日本学術会議が推薦した会員候補のうち一部を任命しなかったことについて菅政権への批判が高まっていた2020年10月5日、フジテレビの平井文夫上席解説委員が、同局の番組(バイキング)で、

「6年ここで働いたらその後学士院というところに行って、年間250万円年金がもらえる」

などと全く事実と異なる発言をし、番組側が10月6日の放送で

「誤った印象を与えるものになりました」

などと訂正した。これなどは、放送中に、当時、学術会議会員が厚遇されているかのような虚偽の事実を述べたもので、会員任命拒否問題で批判されていた菅内閣を擁護する政治的意図も疑われる。しかし、この件で発言者の平井氏個人が処分されたという話はなく(平井氏は、現在も、フジテレビの上席解説委員を務めている)、訂正放送も、今回の玉川氏のように本人が行ったのではなく、番組のアナウンサーが行った。

今回の玉川氏の発言をめぐって露呈したのは、テレビ朝日という放送事業者のガバナンスの脆弱性である。玉川氏の発言の何がどう問題なのか、という点について、放送事業者として明確な問題意識を欠いたまま、外部からの批判に対して場当たり的な対応をしたことが、かえって問題を深刻化させたように思える。

玉川氏の発言は、安倍元首相の国葬の直後、その国葬での菅前首相の追悼の辞が大きな社会的注目を集めている最中に、それに関連して客観的な裏付けがないのに「電通関与」を決めつけるような発言をした点において軽率の誹りを免れない。

しかし、それ以外については、放送法上も、コンプライアンス上も、特に問題があるとは言えない。番組で訂正・謝罪を行った後も、会社として、発言の趣旨を正確に理解した上で、批判や、政治家の圧力等に対しても毅然たる対応をとるべきだった。

ところが、テレビ朝日は、折から国葬問題をめぐる政治的対立の影響もあって訂正・謝罪を機に各方面からの激しい批判が行われたことに狼狽したのか、玉川氏個人の処分も含めた過剰な対応を行い、それによって批判の火に油を注ぐ結果となった。

テレビ放送に関連する不祥事が相次いでいた2008年3月、テレビ朝日で、「放送事業への信頼回復に向け、真のコンプライアンスを」と題して講演を行ったことがある。

放送法規定に則った対応はもちろん、法の趣旨・目的に沿ったコンプライアンスで「社会の要請に応えること」の重要性を訴えたのに対して、多くの社員が真剣に聞き入ってくれた。その後も、放送事業への社会的要請は複雑であり、それに応えていくことは容易ではないが、番組制作や報道の現場で地道な努力が続けられているものと認識していた。

今回の玉川氏への謹慎処分、関係者の社内処分というテレビ朝日の対応は、放送事業者としてのコンプライアンスの基盤を害することになりかねない。放送事業者の組織のガバナンスの欠陥を露呈したもののように思える。

謹慎が明けた時点で、玉川氏が発言の経緯について説明するとされているが、ここでは、批判や政治的圧力に臆することなく、関連する発言の真意について、しっかり説明すべきだ。

一方、テレビ朝日の経営陣も、謹慎処分等についての会社の考え方について、十分な説明を行う必要がある。番組の編集方針とその中での玉川氏の発言の趣旨が、視聴者に、そして世の中に正しく理解されるかどうか、テレビ朝日のガバナンスにとっても試金石だと言えよう。