岸田文雄首相が次の自民党総裁選に出馬しないことを決めた。2021年10月に発足した岸田政権は、約3年間で幕を閉じることになる。
調整型の人物であり、岸田政権中の法案成立率は高かった。他方で、思想的な基盤を持った岸田首相独自の政策というものは、遂に見ることがなかった。
アメリカのバイデン政権発足の年に首相に就任した。直後にロシアのウクライナ全面侵攻が発生した。外交政策では、安全保障面での米国及び米国の同盟国との連携を強化したことが印象に残る。防衛費の倍増という大きな判断もあった。
ただ、それも岸田首相の関心分野だったからそうなったわけでもない。安全保障分野の改革がしたいと主張して首相になったわけでもない。むしろ戦争が多発して激動する世界情勢を、冷戦時代から一貫して続く伝統的なアメリカ重視の路線だけを頼りにして乗り切ろうとした、という印象が強い。
首相自身の関心対象として強調されたのは、核廃絶の問題である。広島市中心部の衆議院広島一区を選挙区にする。ただ、首相自身は、祖父・実父の選挙区を受け継いだだけで、生まれも育ちも東京中心部である(渋谷区で生誕、麹町小学校・中学校、開成高校、早稲田大学)。
核廃絶の問題への言及も、概して抽象度が高く、具体的なレベルでこだわった案件であったと言えるかは疑わしい。欧米諸国のシンクタンクに資金提供をして核廃絶の研究を盛んにしてもらう、といった「政策」が、岸田首相らしい話として、思い出されるくらいだ(もちろんより多くの文書に「核兵器」の文字が入ったのも事実だろうが)。
岸田首相の大舞台は、やはり2023年5月のG7広島サミットだったと言えるだろう。自分の選挙区でG7サミット級の国際会議のホストとなるのは、確かにそう頻繁に起こることではない。岸田首相が、G7首脳陣をもてなすために提供した広島地元産の食材や民芸品のリストは、相当な長さになるはずだ。今も広島各地のお土産店に行くと「G7首脳も食した〇〇〇〇」が多数売られている。
G7首脳が並んで広島平和記念公園の慰霊碑に献花をするシーンなど、視覚に訴える場面は確かにあった。「グーバル・サウス」と十把一絡げにまとめたインドやブラジルやインドネシアなどの有力国の首脳への対応は手短に済ませて、ゼレンスキー大統領の来訪を歓迎した態度もあわせ、岸田首相ホストのG7サミットの成果が何だったのかといえば、「西側陣営の結束」を内外にアピールすることだった。
確かに、欧米諸国の指導者たちは、その「西側陣営の結束」アピールを、日本の岸田首相をホストにして広島で行うことは、好感していた。
思えば、岸田首相が有力な首相候補と目されるようになったのは、第二次安倍政権で長期にわたって外相を務めてからだ。その安倍=岸田外交の時代を象徴するシーンの一つが、2016年のオバマ大統領の広島訪問であった。G7サミットに臨んだ岸田首相の心中には、オバマ大統領広島訪問の成功体験の記憶があったはずだ。
2015年に平和安保法制を成立させた翌年、安倍首相はG7伊勢志摩サミットの後、オバマ大統領を広島に招き、ともに平和の尊さを訴える場面を作った。そのとき、被爆地を地元選挙区とする岸田外相が、オバマ大統領に平和記念公園の施設等を説明する姿が映し出され、日米同盟の精神的紐帯の強化の象徴として世界中に報道された。
実際、沿道では大挙して広島市民がオバマ大統領を歓迎していた。広島の人たちは、不可能と言われた復興を成し遂げた奇跡の町である広島の偉大な功績を、遂にアメリカの大統領も敬意をもって認めるに至ったと理解し、精神的な満足感を抱いていたのである。
その意味では、2023年G7広島サミットの狙いは、少し違っていた。事実上の戦時中の開催となった。「西側諸国」がロシアに勝ち切り、中国及びその他の諸国がロシアになびくのを強くけん制しようとするサミットだった。そのとき、広島は、分裂した国際政治の対立構造を前提として、「西側陣営」の一角を占める岸田首相が率いる日本政府の立ち位置に沿った形で、その外交目的に資するために、活用された。
今年の広島の平和記念式典において、ロシアとベラルーシを継続して不招待とし、パレスチナも不招待としながら、イスラエルは招待し続ける姿勢が問題になった。しかし岸田首相に口説かれて広島市長になり、オバマ大統領広島訪問やG7広島サミットを岸田首相とともに経験した松井一實市長にとって、日本政府の外交方針と完全に一体化するのではない方法以外の選択肢は、ありえなかった。
鈴木史朗・長崎市長のイスラエル不招待が、大きな話題となった。鈴木市長は、1951年から1967年まで長崎市長を4期務めた田川務氏を祖父とする人物である。田川氏は、1947年に当選して初代公選市長となった大橋博氏(日本社会党推薦)を破って、市長となった。
広島では、初代公選市長の濱井信三氏が、広島を平和都市として復興させるというビジョンを掲げてGHQや中央政界にも働きかけ、いち早く「広島平和記念都市建設法」に動いていた。出遅れた長崎市のためには、「長崎国際文化都市建設法」が可決された。
広島では、賛否両論が渦巻く中、広島県物産陳列館(現在の「原爆ドーム」)の保存が、ようやく1966年に決まり、広島平和記念公園と一体の施設として、広島市が管理していく体制がとられることになった。1967年まで市長を務めた濱井氏のリーダーシップの置き土産であったと言ってよい。その後、原爆ドームは、1996年に世界遺産として登録され、今日でも世界の平和主義の精神的シンボルの一つとなっている。
同じ年に世界遺産登録された宮島(の厳島神社の建造物と背後の弥山原始林)とあわせて、広島の重要な観光施設の一つでもあり、世界中から観光客を集めている。そしてG7サミットのような国際会議の背景施設の一つでもある。
長崎でも、田川務市長は、当初は爆心地付近で破壊されたカトリック教会の大聖堂「浦上天主堂」の遺構の保存に前向きであったと言われる。長崎市議会は、保存に向けた決議も行っていた。ところが突如とした田川市長の方針転換によって、1958年に解体されてしまう。
もちろん浦上天主堂は、長崎市の所有物ではなかった。「カトリック浦上教会」が、関心を持つ信徒が多数いたアメリカやカナダなどで募金活動を行って、再建した。
ただ、1955年にアメリカのセントポール市と姉妹都市提携をしたことを受けて訪米して以降、田川市長の態度が豹変し、浦上天主堂の解体撤去に前向きとなった経緯は、史実としてよく知られている。カトリック教会施設の被爆遺構としての保存を望まないアメリカ人たちの「圧力」を受けて、田川市長は態度を豹変させた、と広く信じられている。
この史実に従えば、鈴木長崎市長の祖父である田川市長は、アメリカに気を遣うあまり、重要な文化資源をみすみす放棄した人物であったことになる。「もっとアメリカに気を遣え」、と保守勢力から攻撃されている鈴木市長の今の立場と心中を考えると、非常に複雑な思いにかられる史実だ。
私は、広島大学に奉職していたため、広島にはそれなりに詳しい。他方、長崎も何度も訪問したことがある。双方の都市で、外国人を受け入れた研修の運営に従事した経験も持つ。
率直に言って、広島市の施設はわかりやすい。戦前の軍国主義国家・日本における「軍都」から、戦後の平和主義国家・日本における「平和都市」への転換も、ストレートすぎる歴史だ。原爆の歴史が観光化されすぎている、政治利用されている、という疑問を提起されることもある。
これに対して長崎の歴史は複雑だ。中央政界に大きな影響力を持った歴史がない。それどころかキリスト教弾圧の歴史や、隠れキリシタンの苦難は、弱者に対する迫害の歴史そのものである。
他方で、江戸時代を通じて出島を持ち、幕末にはグラバー商会や海援隊が活躍の場とした開明的な歴史も持つ。もちろん軍艦島のような異なる意味を持つ施設もある。被爆の歴史も、天候事情のため投下対象が小倉から長崎に急遽変更になった混乱があり、三菱造船所などがひしめく港湾部ではなく、町の中心部から外れた複雑な歴史を持つ浦上地区に原爆が落ちる結果となったのも、歴史の皮肉だった。
鈴木市長は、国土交通省に長く勤めた。交通利便性の向上に大きな関心があるという。長崎は、現在、未曽有の人口減少に見舞われており(2023年は長崎県は全国の都道府県でワースト7位の人口減少率)、それは予測しうる将来において続くことが確実視されている。立て直しは容易ではないだろう。
もっとも広島県も、転出超過者の絶対数では、2021~23年と三年連続で全国ワースト1位である。産業空洞化の進行が深刻だ。その状況で、2023年に延べ宿泊者数1,157万人を受け入れた観光系の業種は、有力産業である。岸田首相が主導したG7広島サミットも一役買った。外交政策としての意味と比して、広島の観光振興としての意味は、明確だった。
長崎も、観光系の産業などに、まだ大きなポテンシャルがあると思う。交通事情の整備も大切だろうが、まずは市民・県民が誇りを持てる長崎であることが重要だ。そのうえで、長崎の魅力を、世界に発信していくことが大切だ。
その際、広島と全く同じやり方を取る必要はない。それは妥当でなく、しかも、可能でもない。岸田首相の時代が終わり、あらためて、長崎市の行事である長崎平和祈念式典は、長崎の利益を考えて、長崎市長が運営方法を決定すべきだ、と感じる。