どうして毛沢東は南京でなく北京を首都にしたのか

中国国家の性格は、首都が南にあるか北にあるかで根本的に変化する。そういう話を、『国家の興亡史からわかる現代地政学――西欧の衰退』(さくら舎)で解説しているので、以下はその趣旨と抜粋である。

モンテスキューは「法の精神」において首都は国土の北にあるほうがよいといっている。なぜなら国家にとっての強敵は北から来ることが多いから、首都を北部において防備を固めないと国土を侵食されるからだ。

この原則は、中国の歴史でも当てはまる。中国国家の萌芽期からその中心は洛陽周辺で経済の中心だった。ところが、洛陽は四方に開けて防備は弱い。そこで、当時は最大の脅威は匈奴だったから、その前線にあたり、四方を堅塁に護られた西安周辺(関中と呼ばれた)に首都が置かれることも多かった。

南北朝時代というのは、中原・華北が北方民族に蹂躙されたので、漢民族国家は江南の建康(南京)に逃げて首都とした。 南京の地形は、西に長江が流れ、北は丘陵地帯で玄武湖もあり、北東に紫金山(449m)が聳える。洪武帝の明孝陵や孫文の中山陵がある。そして、南側は秦淮河が東から西へと流れ下町を形成し、その南側に羅城門にあたる中華門がある。

隋の統一後は、首都は長安だが、洛陽が副都的存在だった。この時代には、大運河が広州→揚州→開封→洛陽を結んでいた。ところが、開封と洛陽のあいだは、完全な形の運河でなく、常に水運だけで運べるとは限らなかった。そこで、洛陽にかわって開封(汴京)を首都とすることになったのが五代十国から宋の時代の時代だ。

ところが、女真族の金が進出して北京を首都に華北を支配し、それに南京では華北に近すぎると杭州(臨安)を首都とする南宋が対峙した。

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元(1271–1368)は、カラコルム(オルホン川流域)が本来の本拠だが、フビライの時代には上都(開平府、内モンゴル多倫)を夏の都とし、大都(北京)を1272年以降正式な首都とした。しかし、明に敗れてモンゴルに退去したときには、大都のみならず上都も焼き払われ、カラコルム付近に退いた。位置関係は、北京の北に上都があり、その西北西にカラコルム、上都の北にウランバートルといったあたりである。

明を創建した洪武帝朱元璋は安徽省の出身だったこともあるし、経済や人口がますます南に傾いていたので、かつて南朝の首都建康だった南京を首都にした。

洪武帝は地方軍団が強くなるのを警戒したが、モンゴルの逆襲に備えるために西安に泰王、太原に晋王、北京に燕王を封じた。しかし二代目の建文帝の側近が彼らを排除しようとする動きもあったので、燕王だった永楽帝朱棣は攻勢に出て建文帝を廃し、自分が永楽帝となった。

永楽帝は、最強の軍団を北方に置かざるを得ないジレンマから、経済実態とは乖離するが首都を北京(順天府)に遷した。そして、万里の長城を現在見るようなレンガ造りの壮大な城壁につくりなおした。

しかし、同時に南京(応天府)にも首都機能の多くを残した。そして、明に代わった清は北方民族出身だから当然のこととして北京を首都とした。明という時代は、経済も順調で、中央集権による統制もよくとれ、中国史上で最強の時代で、豪華な文化が花咲いた。

ただ、漢民族にとっては南京こそ漢民族の首都という気持ちは継続し、太平天国の乱の洪秀全は南京を天京としたし、孫文も中華民国の建国宣言を南京でした。

北京では清朝は漢族で北洋軍閥の長である袁世凱を総理にして孫文と交渉させた。この交渉は、袁世凱を中華民国の臨時大総統にするなどで妥協が成立し、中華民国政府は、満・漢・蒙・回・蔵からなる多民族国家としての清朝の継承国家となり領土を引き継ぐことになった。しかし袁世凱は南京を首都とする約束にもかかわらず、北洋軍閥の本拠である華北から離れることを好まず、なし崩し的に北京に留まった。

袁世凱の死後も北洋政権は存続したが、広州にあった蒋介石は北伐を開始し、1927年に南京政府を樹立し、1928年にはこれを首都として確定させ、北京は北平と改名した。

日中戦争にあっては、1937年の盧溝橋事件のあと日本軍は北京に親日政権(冀東防共自治政府 → 中華民国臨時政府)を置き、名称を北京に戻した。また南京は日本軍に占領され、蒋介石は重慶に移り、1940年には汪兆銘が新しい中華民国政府(南京政府)を樹立し、当時の世界の独立国の約4分の1から承認された。この当時、共産党は陝西省の延安に所在しており、事実上三つの政府が存在する状況となった。

日本の敗戦後、蒋介石は南京と重慶を行き来したが、1946年に南京に落ち着いた。しかし国共内戦が激しくなり1949年1月に総統を辞任。12月には蒋介石が台北に移り総統に復帰したが、台北は臨時政府所在地であり、南京が首都だとしてきた。

一方、毛沢東は1948年に内戦の激化で延安を攻略され、農村を転々としたが、河北省の西柏坡(石家荘付近の村落)に落ち着き内戦を指揮し、1949年3月に北京入り、10月1日に天安門で建国宣言を行った。北京を首都とすることは9月の会議で決まっていた。

なぜ北京を選んだのか公式な説明はないので推測でしかない。まず建国宣言の段階で南京は共産軍の手に落ちていたが、まだ安定した状態でなく、新政府の基盤を早く固めるには不向きだった。

南京は辛亥革命と国民党政府のイメージが強かった。さらに毛沢東は若い頃に短期ながら北京で勤務経験があり、しかもそのときに反日運動の原点となる五四運動事件が起きているのに対して、南京居住経験がなかった。

北京のほうが内戦再勃発や日本軍の再決起などの際にソ連の支援を受けやすかった。満蒙へのソ連の進出を抑えようとした可能性もある。

ただ、経済的には長江や黄河に沿って海に出る東西を結ぶ交通網が幹線であるべきなのに、政治的な要請から北京を中心に放射線状に交通網が整備されているのである。

また、北京は砂漠地帯や黄土高原に近いので、黄砂が吹き付けるし、大きな人口を支える水資源もない。 そこで、本当は長江流域に遷都したらという人もいる。


国家の興亡史からわかる現代地政学――西欧の衰退

【目次】
第1章 文明の源流と民族奥亡が紡いだ古代ユーラシアの大地図
第2章 大航海、新帝国、革命が形づくった近代ユーラシアの再構築
第3章 ユダヤ・イスラーム・ギリシアの世界が形づくった中東の文明圏
第4章 ロシアとウクライナを形づくった千年の興亡史
第5章 インド文明を形づくった大地・民族・宗教の多層史
第6章 王朝・民族・地政学で読み解く東アジア世界の歴史構造

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