英国とEUそもそもの始まりから「離婚」に向かうまで 改めて振り返る

(「英国ニュースダイジェスト」の筆者コラム「英国メディアを読み解く」に補足しました。)

来年3月末、英国は欧州連合(EU)から離脱する(=「ブレグジット」)ことになっていますが、英政府側とEU側が合意した離脱協定に対する英国内の不満が高く、不安感が増しています。11日にはこの協定を認めるか認めないか、下院で投票が行われますが、もし否決された場合、どうなるのか先が読めない状態です。

そもそも、英国はEUにどのような過程を経て加盟したのでしょうか。ここでちょっと振り返ってみましょう。

欧州統合の歩みは、第2次世界大戦後に始まりました。

多大な犠牲者を出した欧州各国は今後、2度とあのような戦争を起こさないように互いの友好を深める必要に迫られました。フランスの政治家ジャン・モネとロベール・シューマン外相は経済協力によって欧州間の結合を深める構想を提唱します。

こうして設立されたのが欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC、1951年)でした。フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクが加盟国です。その後、経済統合を目標とする欧州経済共同体(EEC、1958年)と欧州原子力共同体(EAEC、1958年)が発足。

エドワード・ヒース英元首相(Wikipedia:編集部)

1961年、マクミラン首相の下、経済の活性化を望んだ英国はEECへの加盟申請を国会で可決しますが、1963年、フランスのド・ゴール大統領が英国の加盟に反対し、実現しませんでした。ド・ゴール大統領は英国が加盟すれば米国も入ってきて、共同体を支配するようになると懸念したのです。そうして1967年にも加盟申請を拒否されてしまいました。

英国のEECへの加盟が実現したのは1973年です。デンマークとアイルランドも同時に加盟しました。ヒース首相は加盟によって英国に繁栄が訪れると喜んだようです。2年後の6月7日には、EECに加盟し続けるかどうかの国民投票が実施。3分の2が加盟維持に賛成しました。

サッチャー政権と懐疑派

マーガレット・サッチャー英元首相(Wikipedia:編集部)

その後、欧州内で統合・拡大の気運が盛り上がる中、英国内にくすぶる欧州懐疑派も存在し続けました。これが顕著になったのがサッチャー政権(1979~90年)時です。

1984年、サッチャー首相は英国への払戻金(リベート)制度を導入させます。拠出金の大きいわりに恩恵が小さいとして、一定の払戻金が英国に支払われるようにしたのです。

1992年には投機筋のポンド買いを受けて、英国はサッチャー首相が不承不承加盟した「欧州為替相場メカニズム(ERM)」から脱退。

マーストリヒト条約へ 英国独立党が生まれることに

1993年発効のマーストリヒト条約によりEECは欧州連合(EU)として発展しますが、デンマークの国民投票批准が否決され発効は延期されました。

メージャー保守党政権は党内外の議員の反対に遭い、これを抑えて条約を批准したのは同年8月。発効はその3カ月後でした。昨年のEU離脱か残留かを巡る国民投票の実現に大きな貢献をした英国独立党(UKIP)の前身は、実はこの時期に発足しています。

こうして英国は、EUに加盟しながらも独立独歩の姿勢を貫いてきました。欧州単一通貨ユーロを導入せずにポンドを維持し、国境検査なしで往来できるシェンゲン協定にも参加していません。

2004年、拡大路線のEUは旧東欧を中心とする10カ国の加盟を認めました。新加盟国ポーランド、ハンガリー、チェコなどからの移民が英国にやって来ました。

EUは域内でのヒト・モノ・資本・サービスの自由な往来を原則としているために、加盟国は域内からの人の流入を制限できません。地域によっては旧東欧の移民で溢れたり、国民医療制度(NHS)の病院や学校が急増する患者や生徒の対応に追われる事態が発生。低所得層の一部は「仕事が奪われる」「福利厚生が手薄になる」などと危機感を覚えるようになりました。

英国では欧州大陸は元々「外国」という感覚があります。強いポンドと過去の歴史を背景に独立心が旺盛な英国人にとって、統合の拡大化と深化に向けてまっしぐらのEUとその官僚機構は、不信感を覚えずにはいられない存在です。

意見がバラバラの英国

2016年6月の国民投票では離脱派が僅差で勝利しました。離脱後、英国経済や人々の生活がどうなるのかはまだ分からない状況です。内閣内でさえ離脱の方向については意見が一致していないのです。

テリーザ・メイ英首相(Wikipedia:編集部)

民主的な方法で離脱と決めたのですから、何とか良い結果が得られるよう、政治家の奮闘を期待したいものですが、国内には様々な分断があって、なかなかうまく行きません。

まず国民ですが、メイ首相が思い切った離脱を実施しようとすればするほど、残留派の国民から不安が生まれます。複数の世論調査を見ますと、以前に離脱派だった人が少し残留派になっているという結果は出ているものの、もう一度国民投票をやった場合に、「残留派が大きくリードする」ことはないと見られています。

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与党保守党が離脱強硬派、離脱温和派、残留派に割れており、内閣も割れています。労働党も国会議員の中では残留派が多いのに、労働党の支持者が多いイングランド地方北部に住む人は離脱を選ぶ傾向がありました。

さて、今、最大のネックになってきたのが、「アイルランド国境問題」です。離脱後にアイルランド共和国が「EU国」で、英国が「非EU国」なったら、英領北アイルランドとアイルランドとの間にモノや人の移動をチェックするため、線を引くことになります。もしそうなれば、地域紛争が起きるという理由から、そして「北アイルランドを英国から切り離す案は受け入れられない」という北アイルランドの政党DUPの反対で、膠着状態です。

でも、これは交渉が開始された時から分かっていたことでした。英政府側の「なんとかなるさ・・・」ということでここまで来てしまいました。

筆者自身は残留を支持していたのですが、英国民同様、「なんでもいいから、早く決めてくれ」というのが本音です。

でも、40数年間一緒に生きたバートナー同士。右往左往しながら、時間をかけて、別れていくものなのかもしれません。


編集部より;この記事は、在英ジャーナリスト小林恭子氏のブログ「英国メディア・ウオッチ」2018年12月4日の記事を転載しました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「英国メディア・ウオッチ」をご覧ください。