ウズブズ
11月9日、近衛は霞山会館から東京湾に浮かぶ揚陸艦アンコン号に連れていかれた。前もってウズブズ副団長のポール・ニッツに、質問は虎ノ門の霞山会館で受けたい旨、伝言していたにも関わらず。
ウズブズは、ノルマンディー作戦で空軍が果たし役割やドイツに対する戦略爆撃の成果の評価を行う目的で44年11月にできた陸海軍合同の機関だ。日本の敗戦でトルーマンは、真珠湾攻撃の理由、降伏決定するに至った経緯、広島・長崎への原爆投下の効果を調査項目に加えた。
ウズブズの尋問記録は、国立国会図書館デジタルコレクションの「米国戦略爆撃調査団 尋問373号」(英語版)*で読める。
近衛の尋問には、団長フランクリン・ドリアー、副団長ニッツの他、ケネス・ガルブレイス、ポール・バランやトーマス・ビッソンが立ち合い、バランが尋問した。彼らは45年夏までにドイツでの調査を終え、休む間もなく来日した。
経済学者として知られるガルブレイスは、ドイツと日本でのウズブズの仕事ぶりを「回想録」に残している。その45年4月12日のルーズベルトの訃報に接した翌日の記述が興味深いので紹介する。
翌朝、私は、もう一人のルーズベルト信者ネルソン・ロックフェラーと一緒に列車でワシントンに向かった。我々二人はルーズベルトの死が我々の将来に対して、政治的に、あるいはその他の形でどんな影響を及ぼすのかの予測を試みた。ネルソンは自分は大丈夫だろうといった。その言葉は的中した。
ディープステートの主役の一人ロックフェラーはルーズベルト信者だった。ルーズベルト政権にはアルジャー・ヒスやハリー・ホワイトら高位者を含む数百人のソ連スパイがいた(ヴェノナ文書)。そのロックフェラー財団の奨学金を得たノーマンはハーバードで博士号を取り、ビッソンはアジア旅行をした。
これらはどれも公開情報だ。しかし何れも状況証拠で、裏でどう繋がっていたのか確証はない。
そして日本の調査に関する「回想録」の記述。
1945年の日本では、自殺は珍しいことでもなかった。ある日の午後我々は、当時東京湾に繋留されていたアメリカ海軍の戦略指揮艦アンコン号の艦上で長時間にわたり、戦争勃発前の最後の文官宰相近衛文麿の尋問を行った。バランは特に気を付けて、近衛公とは呼ばずにミスター近衛と呼び、また近衛の答えを一から十まで信用しているという印象を与えないように努めた。しかしその日は不愉快なことばかりではなかった。ちょうど日本に来ていたドリアーが近衛公に息子の文隆の消息を尋ねた。文隆はかつてプリンストンに在学し、満州でソ連軍の捕虜になっていた。その夜近衛公は自殺した。
バランは、メンシェビキのポーランド系ユダヤ人を父にソ連で生まれたハーバード出の共産主義のマルクス経済学者、とガルブレイスは明け透けに書き、「曹長に過ぎなかったが、あれほど頭脳明晰で、抜群に興味深い経済学者に会ったことがない」とし、「愉快な才智で周囲を感心させ機略縦横だった」と高く評価する。
バランは東部戦線の独軍司令官に作戦行動の細目を長時間尋問した。司令官は「米軍にはあなたのような諜報将校が大勢いるのか」と問い、「もしそうならこの戦争の勝負の理由は説明がつく。東部戦線で独軍が直面した諸問題についてのあなたの知識は、総統より遥かに勝っている」と驚嘆した逸話も出てくる。そういう人物が近衛を尋問した。
鳥居は「都留は、10月19日に戦略爆撃調査団の団員トーマス・ビッソン、10月20日にはポール・バランが彼の家を訪ねてきたことを記している」とし、「木戸が来ていたので外で応対した」とある、と前掲書に書く。近衛尋問の20日前のことだ。このビッソンもヴェノナ文書にこう書かれている。
OSSは45年春、ソ連シンパのフィリップ・ジャッフェが発行する雑誌「アメラシア」の事務所に侵入し、数百通の極秘政府文書を発見した。OSSから連絡を受けたFBIはジャッフェのホテルを盗聴、彼は知人にアメラシアで雇っていたバーンステインが長年ソ連のスパイをしていたと話した。
ヴェノナ文書が解読したバーンステインに関する43年の暗号通信にビッソンとの関係を示す記録がある。ビッソンは戦時経済省を辞めてIPRにいた。彼は中ソ関係の情報や欧州の英米共同の軍事情勢評価を含む報告をモスクワに通信し、戦時経済省の秘密報告をバーステイン経由でGRUに渡していた。
他方、ノーマンは37年末の手紙に、ニューヨークでIPRのフィリップ夫妻に「China Today」を発行する中国人夫妻を紹介されたと書いた。フィリップ夫妻とは「アメラシア」のフィリップ・ジャッフェの夫婦であろう(工藤前掲書)。こんなビッソンがなぜウズブズに入れるのか疑問が湧く。
つまり、アンコン号で近衛を尋問したバランとビッソンは共産主義者とソ連スパイであり、都留とノーマンは39年代半ばハーバードで親しく付き合った。その都留をバランとビッソンが近衛尋問の前に訪問した。その目的の推察は難しくない。都留とノーマンのことは後にして「尋問書」に進む。
過酷なアンコン号での尋問
近衛の「尋問書」はマイクロフィルムで23頁、邦訳で2万語を超えるので紹介し切れない。が、少なくとも尋問に臨むウズブズの姿勢は、ガルブレイスの回想録の記述にある通り、初めから邪悪な目的を孕んだものと知れる。
バランは執拗に41年9月6日の御前会議を取り上げた。8月の石油禁輸を受けた会議で、10月上旬まで外交努力をし、不調の場合に開戦準備にあたると決まった。陛下は、開戦準備と外交努力の順を逆にして外交努力を優先させ、「四方の海・・」で知られる明治天皇の御製を以てお気持ちを示した。
ソ連嫌いの近衛は、吉田茂の持論だったルーズベルト大統領との直談判を模索したが、体よく断られ総辞職した。10月7日に組閣した東条は、陸軍大臣の時の9月6日の陛下のご意向に恐懼し、11月5日の御前会議では、大幅な譲歩を盛り込んだ対米交渉「甲案」「乙案」を策定した。
しかし、この暗号電報を傍受した米国の解読文は日本の意向を著しく歪曲していた。ハルノートの送達が決まっていたからだ。ブレークニー弁護士は東京裁判でこのことを暴露し、パル判事も米国の不誠実を難じた。
従って、バランがいかに執拗に難詰しようとも、近衛は次のようにしか答えようがなかった(尋問書の拙訳)。
陸軍と海軍によって用意された元々の計画は、交渉が10月の半ばまでに満足のゆく結論に達しない時は戦争が始められるだろう、だった。けれど政府は修正した、・・すなわち、10月半ばまでに交渉が締結に至る可能性が見えない時は、戦争に進む準備に入るだろうと。
帰りの車中で近衛は、疲労困憊した頭でウズブズが拘った9月6日のことを考えた。というのも、終戦から3ヵ月のこの時点で、4年前のこの御前会議の内容を知っている者の多くは巣鴨にいるか自殺していて、それを総司令部に漏らす可能性のある者が極めて限られていたからだ。
それは木戸だった。木戸がIPSやウズブズと通じていると認識したが、近衛はそれを「黙」して死んだ、と鳥居は推察する。荻外荘に戻った近衛は富田健治にこういった。「取り調べは酷いものでしたよ。全く検事が犯罪人の調書を取るようだった。私も戦犯で引っ張られますね」。
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