公開情報から読み解く近衛文麿自決の謎⑤

高橋 克己

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都留とノーマン

都留は木戸の弟和田小六の女婿で、空襲にって和田家に仮寓していた。後木戸も同居し、45年の正月は小六と都留の夫妻と団欒し(工藤前掲書)。バランとビッソンが都留を訪ねた際外で応対した(鳥居前掲書)

故都留重人氏(NHK人物録より:編集部)

若くして左翼思想に染まった都留は、日本での進学が叶わずウィスコンシン州カレッジに1年間留学、後ハルノートを草したソ連スパイのホワイト(35年にハーバードで博士号)の授業を受ける。その後ハーバードの学部に入り、ノーマンの知遇を得

35年に優等で卒業後、同期で唯一大学院に進学した都留と思しき日本人について、ノーマンは兄への手紙で驚くほどシャープな、自分と同じような考えを持つ有能なマルクス主義者と書いている(工藤美代子「スパイと言われた外交官」)。

1897年に宣教師を父に日本で生まれたノーマンは23年にカナダに戻。トロント大学を33年に卒業し、ケンブリッジ大トリニティーカレッジに留学、35年に歴史学科を優等で卒業しカナダに戻った。14年7月の産経新聞は、彼が英国留学中に共産党員になったと報じている。

若き日のハーバート・ノーマン(Wikipedia:編集部)

記事には、ノーマンが英国留学中の35年に英国MI5によって共産主義者と断定され、GHQに彼がいた51年カナダ政府に通報していたことが、14年7月に英国立公文書館の秘密文書で明らかになったとある。当時の同大学にはケンブリッジファイブとして知られる5人のソ連スパイがいた

ニューヨーク都留と東京ノーマンは42年7月、東アフリカの港で交換船を乗り換える際に接触した。11月、ノーマンは都留のアパートでFBIと出くわす。彼はカナダの外交官政府の調査で都留の書籍を入手しに来たと嘘をついた。都留の共産主義に関する書籍や文書を取りに行ったと疑われる。

GHQのG2部長ウィロビーの「回想録」には、「ビッソンは都留と親しいが、都留は戦前、共産党活動で官憲に逮捕された人物」、都留が「ビッソンを通してGHQの業務にその見解を投影させ、占領政策に直接の影響を及ぼしているのあることは由々しき点」とる。

木戸「尋問書」

10月10日、ウズブズは木戸を広田弘毅らと同じ明治生命ビルに呼んだ。近衛だけアンコン号だったのはバランが近衛をミスターと呼んだのと同じ理由。彼は木戸をMarquis(侯爵)と尊称し、冒頭こう述べた(近衛はいきなり尋問に)。

木戸侯爵には、お越し下さってありがとうございます。既にワイルズ中佐が侯爵に我々の業務の性格をお知らせし、我々が侯爵から幅広い戦争の傾向を得る試みについて説明していると存じます。

木戸の「尋問書」は近衛のそれの半分の12頁で、表紙にこう要約されている。

木戸侯爵は、マリアナ海戦から1945年8月の降伏までの期間に展開された政府と軍部の関係について話した。彼はまた当初の日本の戦争目的、陸軍と海軍の関係、原爆とソ連参戦の影響、そして1941年秋のワシントンとの交渉に関する若干の要点を概観した。

木戸の隠したかったこと

第一部の冒頭で、鳥居が「木戸幸一との暗闘の末、近衛が命を絶つことになったことを明示した」と書いた。木戸が認めたくなかった自らの落ち度を、鳥居はこう推論する。

木戸幸一(Wikipedia:編集部)

一つは41年10月14日の閣議。中国撤兵を迫る近衛に、東条陸相は「撤兵は退却である。それでは士気を失う」と反対し、閣内不一致を表面化させた。木戸は陛下に陸軍大臣を諫めるよう言上すべきだった。が、そうはせず、近衛内閣は総辞職した。

二つ目は41年11月30日。高松宮が陛下に「海軍は手一杯で、出来れば日米戦争は避けたい意向」と奏上、陛下木戸にそを下問した。翌日の御前会議で戦争回避を、と木戸は陛下に言上すべきだった。が、「海軍大臣、軍令部総長をお召しになり、海軍の腹を直にお確かめ相成度」と述べた。

今さら彼らが海軍は戦えないとはいえないから、山本五十六が保科善四郎を使その部下だった高松宮に奏上を頼んだ、と鳥居は推定する

高松宮日記には11月14日から30日の記述がない。が、12月1日の日記に11月30日は秩父宮妃と車で御殿場に秩父宮を見舞い、車中で「胸心地悪く、一寸ハイテ見たら乱脈になり、ヂギタリスもらってのむ」と書いた。鳥居は秩父宮午前に起こったことを話したと推定する。

その後、木戸縷説したように宮中の壁を高くした。近衛上奏は3年ぶりの拝謁だったが、野にあった近衛は「軍部、官僚、右翼、左翼の各方面に交友を持」ち静かに反省して到達した境地を奏上した。それは「日本の共産革命」と「軍部内一味の革新運動への懸念」だった。

軍部内の一味とは、木戸が総理に据えた東条を中心とする統制派であり、対する皇道派には近衛上奏文に参画した小畑がいた。近衛の上奏以降、終戦工作に舵が切られたが、それは近衛や吉田の考えであって、ノーマンが木戸「覚書」に書いたように木戸が言い出した訳では決してない。

都留がしたこと

木戸の近衛への敵愾心は近衛上奏で一層高揚したのではか。マッカーサーにも近衛は逸早く上奏と同じ趣旨を述べ、激励され、憲法改正を託された。二人の立場は逆転、戦犯指名も始まり、木戸の胸は掻きむしられた。そんな心境を同居する都留に話したとしても不思議はない。

総司令部調査分析官として「覚書」を任された共産党歴のあるノーマンとウズブズビッソンは共にロックフェラー財団の奨学生でありIPRで交流した。バランもハーバード出の共産主義者だ。彼らが思想を同じくする都留の義伯父の窮状に接し示し合わさないと考えることの方に無理があろう。

とはいえ筆者は、木戸は近衛の天皇退位論に反対する立場などを都留に話しただろうけれど米国の知人を使って近衛を陥れろ、などというとは思えない。「覚書」でノーマンがしたことや「尋問書」でバランやビッソンがしたことは、都留が一存で動いた結果、と考える方が自然だ。

都留の近衛排除は木戸とは同床異夢だ。木戸は日記に「内大臣が有罪なれば陛下も有罪」との米国の考えを都留から聞き「腹の決まりたる様な感を得たり」と書いている。が都留の意図は、共産主義を敵視する近衛復権芽を摘むことだった。これならノーマンやバランやビッソン説得し易い。

ここで初めて書くハーバード人脈二人いる。それはFBI出身のIPS(国際検察局)捜査課長ベン・サケット佐とジョセフ・キーナン首席検事だ。サケットは12月16日、近衛自殺の報で荻窪に駆け付け、秘書の牛場友彦から近衛の手記を押収し、後にGSと揉めている(粟屋前掲書)

12月21日、木戸が巣鴨からサケットに連れられて服部ハウスに行くと、そこにキーナンがいた。都留は14日にサケットとキーナンと会食し、ならしていた。木戸は15日の日記に「都留君来訪、キーナン等と会食せしことにつき話ありたり」と記している。

57年3月12日以降、エマーソンは米上院国内治安小委員会に3度呼ばれ、自身の中国での活動とノーマンとの関係を訊かれた。15日カナダ下院がノーマン問題を討議した。26~27日、都留はノーマンが42年11月に都留のアパートに行ってFBIと鉢合わせした件などを訊かれた(ノーマン全集年譜)

57年4月4日ノーマンは赴任地エジプトで飛び降り自殺した。47歳だった。一方、東京裁判で死刑を免れた木戸は、55年に健康上の理由仮釈放され、77年に87歳の天寿を全うした。都留も93歳の長寿で06年生涯を閉じたノーマンの倍、生きたことになる。

■完