豊臣と徳川の真実④ 上杉景勝と福島城と若松城

※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)、『本当は間違いばかりの「戦国史の常識」』 (SB新書)を元に、京極初子の回想記の形を取っています。前編「織田と豊臣の真実」はこちらから全てお読みいただけます。本編の過去記事リンクは文末にあります。

若松城(NicolasMcComber/iStock)

越後の上杉景勝さまは、太閤殿下が亡くなる年に越後から会津に移られました。蒲生氏郷の子の秀行さまの出来がもうひとつで大事な会津の地を任せておけないと言うことで、宇都宮に移されたのです。

しかし、太閤殿下の病気もあって、すぐに上京されて新しい領国内の仕置きが不十分でした。

そこで、帰国されたのですが、越後の新領主である堀秀治さまと紛争を抱えておられましたし、南の宇都宮には蒲生、北東の岩木山には伊達という会津の旧領主が虎視眈々とまだ安定しない上杉の領地を狙っておりました。

それに、上杉家は大幅に領地が増えたのですから、新しく家臣を抱え、領内の経営をやりやすくするために公共事業を起こさなければ成りませんでした。

また、蒲生氏郷さまが蘆名家の黒川城を改築された若松城は手狭で近くに山があって大砲が登場した時代には防備が不備になっていました。私たちの時代から二世紀半ののちには、戊辰戦争で小田山というところに佐賀藩がアームストロング砲を据え付け、若松城を攻撃して会津藩の息の根を止めています。

もっとも、このときは、若松城下の浄土真宗のお寺の住職が道案内して、小田山からの攻撃するのがいいとアドバイスされてます。もともと会津は仏教王国でしたが、保科正之さまが仏教嫌いで弾圧されたために、寺院は会津藩には好感をもっていなかったようです。

少し脱線しましたが、保科正之さまは私の妹の江の目を盗んで秀忠さまが外でつくった子ですから、好感を持つはずありませんからお許しください。

そこで上杉家家老の直江兼続さまは北の神指原というところに、大きな城の工事を始められました。

家康さまはここぞと、景勝さまに上京して釈明するように書状を出されましたが、直江さまは、家康さまこそ太閤殿下の遺言を無視して勝手な振る舞いがあること、上杉家がしていることは転封された以上、当然するべきことをしているだけという「直江状」をもって反論されました。

上杉さまもこのままでは、前田さまと同じく家康さまに屈服させられてしまうと思われたのでしょう。

家康さまは景勝さまの謀反であると決めつけ、会津攻めを秀頼さまや茶々にも承諾させ、諸大名を率いて六月に大坂を発ちました。上杉を踏みつぶせばそれはそれでよし、上方で反乱が起きれば、それを機に邪魔者を排除しようというつもりでした。

これを見て動き出されたのが石田三成さまでございます。7月に入って、盟友の大谷吉継さまを佐和山城に招き計画を打ち明けられました。そして、かねてより示しあわれていた毛利輝元さまが大坂城に入って総大将に決まり、奉行らから「内府違い」の檄文が送られました。

このときに、はたして、三成さまと直江兼続さまのあいだにどれだけ連絡ができていたかは、私にもわかりません。ただ、三成さまは豊臣と上杉の連携のときから兼続さまとは懇意でしたからすくなくともあうんの呼吸はあったのでないででしょうか。

福島城と県庁のお話(余談)

会津の方は、若松の方が大きな城下町なのに、福島に県庁をとられたのを残念に思っておられます。そこで、あまり知られていない福島城のお話をしておきましょう(「日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎 」光文社知恵の森文庫より)。

福島城を築いたのは、木村吉清という方です。木村吉清さまは、天下統一のときに大崎領(宮城県北部)に封じられたのですが、伊達政宗さまの画策で地元勢力に大崎の乱を起こされました。鎮圧後は、伊達政宗さまが米沢から大崎領に移され、木村様は蒲生氏郷さまの与力として信夫郡に移されたのです。

このときに、阿武隈川の船着き場だった大仏に福島城を築いて本拠とされました。しかし、蒲生家はのちに宇都宮に移され、上杉さまが会津の領主になられましたので、木村さまも豊後に移されました。上杉家では南西の郊外の平山城である大森城を拠点にしました。

関ヶ原の戦いののち、上杉様は120万石から30万石に減らされましたが、このときの領地は出羽の置賜郡(米沢周辺)と陸奥の信夫郡(福島市周辺)と伊達郡(伊達市周辺)でした。

ところが、1679年に上杉様は領地を半減させられて陸奥領を召し上げられました。そのあとに、本多様が福島城に15万石で入られました。東の桑折に築いて移ろうという案もあったくらいで、城も城下町も小規模だったのですが、本多様もまた移封され、その後、堀田氏10万石を経て、1702年に板倉氏3万石とだんだん小さくなり、福島城のままでいいではないかということになったのです。

福島市が県庁になったのは、1871年に全国が七五府県に分けられたとき、二本松城が戦火で焼かれていたとか、福島藩の板倉氏が三河に移され城が空き家だったといった施設面の都合だったようだったようです。本来なら二本松が順当だったと思います。

1876年の第二次府県統合で、福島、会津、磐城の三県が合併したとき、真ん中だというのでここが県庁になったのは自然なことでした(旧会津藩領の越後国東蒲原郡も1886年まで県内)。

全国的に見て平均的な人口規模だったことから県域設定にも特異性はなく、福島も反政府軍に参加していたので、会津が戊辰戦争で反官軍だったから県庁になれなかったのではないのですが、北に偏りすぎなので郡山への県庁移転運動がありました。郡山は二本松藩の宿場町でしたが、1879年から安積疏水の工事が始まり開拓が進み1887年には東北本線も開通予定となり県内交通の中心となると約束されていていたのです。

しかし、どこかで移転を認めると、各地に波及して全国的混乱が心配されたので、内務省は拒否しました。

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