※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)、『本当は間違いばかりの「戦国史の常識」』 (SB新書)を元に、京極初子の回想記の形を取っています。前編「織田と豊臣の真実」はこちらから全てお読みいただけます。本編の過去記事リンクは文末にあります。
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琵琶湖遊覧船の乗り場になっているのが浜大津港です。びわこホテルや京阪電鉄の浜大津駅に隣接しており、夏の花火大会でも有名です。
かつては、JRの駅もあったのです。京都からの鉄道が開通したときには、東山トンネルがなかったので、奈良線に沿って南下し、現在の名神高速道路のルートを名神高速道路の京都東インターまでいったところに大谷駅があり、そののち、日本初の鉄道トンネルだった逢坂山トンネルを抜けて国道一号線に沿って現在の膳所駅まで行きました。当時は馬場駅と言いました。
ここでスイッチバックして京阪電車石坂線に沿って浜大津まで行って、そこから長浜まで鉄道連絡船だったのです。その浜大津港から浜大津駅あたりが大津城の跡です。
太閤殿下の死後、わたくしは竜子さま(秀吉側室、京極高次と兄弟)を連れて大津城に戻りました。太閤殿下は亡くなる年にわたくし自身に近江で2045石の領地を下さいました。寿命をさとられたのか、自分の死後に茶々や秀頼さまを助け、あわせ竜子さまの面倒も見るようにという趣旨でした。
大津城は、いまの浜大津港のあたりにございました。京都から逢坂の関を過ぎて、谷間を縫うように東海道を行くと、突然に視界が開けて琵琶湖や比叡・比良の山々が眼下に広がります。「十六夜日記」で東海道でもっとも美しいといわれた景色ですが、いまでは、無計画にビルが建って辛うじて面影が残るくらいになっています。
そこからなだらかな坂道を下っていくと浜大津港があります。そこが大津城の本丸跡です。いちばん低いところに本丸がある「穴城」ですが、幾重もの堀が巡らされ、それが江戸時代には水路として利用されていましたので、いまも、その痕跡くらいは見つけることもできます。
「近江八景」は室町時代に近衛政家さまによって選定されたともいわれておりますが、大津城の天守閣に上れば、比良の暮雪が遠くに姿を見せ、真っ白い帆船が湖を行き交い、三井の晩鐘の美しい音色が湖面に流れていきました。
とくに感動的なのは春霞と虹でございます。元禄のころ、松尾芭蕉という俳人が、「ゆく春を 近江の人と惜しみけり」という句を詠みましたが、昭和の作家である司馬遼太郎という人は、この句の近江をほかの地名に置き換えても成り立たないと書いています。琵琶湖に立ち上る春の霞とか近江の人のやわらかさがあってこその句だというのです。
近江は虹の多い国でもあります。夏の雨上がりなどには、琵琶湖の上にそれはそれは大きな虹が架かるのです。虹のことをフランス語では「アルカンシエル(空に架かるアーチ)」というそうですが、大津ではそのことを本当に実感できるのです。しかも、幾重にも架かることもあって、そのときの美しさといったらありません。
そして、天気のいい日だけですが、はるか北の彼方の琵琶湖ごしに伊吹山が見えます。あの小谷城から巨大な姿が見える荘厳で石灰石で出来た岩山です。その姿を見ると、小谷城落城のときの光景が、自分で見て覚えていたのか、母など人から聞いて憶えているように勘違いしているだけかは定かではありませんが、目の前や夢のなかに現れました。
しかし、そのときは、わずか2年後にこの大津城で生涯で3度目の落城を経験することなど想像もしていなかったのでございます。
また、竜子さまにとっては、琵琶湖の風景は、10数年前に、夫だった武田元明が奧琵琶湖の海津で無念の死を迎えたことを思い出すものだったかも知れません。
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