豊臣と徳川の真実⑥ 北政所の方が茶々より西軍寄りだった

※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)、『本当は間違いばかりの「戦国史の常識」』 (SB新書)を元に、京極初子の回想記の形を取っています。前編「織田と豊臣の真実」はこちらから全てお読みいただけます。本編の過去記事リンクは文末にあります。

関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻) 関ケ原町歴史民俗資料館(Wikipedia)

関ヶ原の戦いのときに、北政所さまは東軍につき、茶々は西軍だったなどという人がいます。近年、公開された「関ヶ原」とかいう映画でもそうでした。しかし、それは誤解でございます。

秀吉さまの亡くなったあとの家康さまのなさりようには、茶々としても憤懣やるかたなかったのは確かです。しかし、利家さまが亡くなり、利長さまや三成さまが失脚された以上は、しばらくは、家康さまと喧嘩できませんでしたし、お江の舅であるということもありました。

ですから、前田利長さまが窮地に陥られたときにも、それを助けるという積極的な行動は取らなかったのですし、会津攻めには家康公に軍資金まで出したのでございます。

しかし、石田三成さまが挙兵され、それに、毛利輝元さまや宇喜多秀家さまも味方され、西軍が上げた家康さまの罪状はまことに最もなものでしたから反対できません。

そうはいっても、このときはろくな側近もいません。乳母である大蔵卿の息子である大野治長は下野に流されたのち、家康さまに利用されてこのときはなんと東軍に参加していました。茶々のまわりにはあの信雄さまなど織田家の者たちがたくさんいましたから、あまり深入りはしないほうがよいと助言しましたし、それを受けての、ややおっかなびっくりの対応でした。とくに、三成さまにとって心外だったのは、豊臣家として軍資金を出すことはなかったことです。

また、家康さまは許せないが、西軍が勝ったあとは、家康さまには腹を切らせるか隠居させるかしても、秀忠さまにはしかるべき領地をのこしてやって欲しいとも思っていたはずです。

まして、8歳の秀頼さまを出陣させるということは、茶々は絶対に反対だったと聞きます。そして、総大将の毛利輝元さまも茶々に引き留められて秀頼さまといっしょにいて大坂城から出ないうちに敗戦となり、あとは、茶々も三成さまたちが勝手にやったこと、家康はよく逆賊を討ってくれたといわざるをえなくなりました。

北政所『絹本着色高台院像』(高台寺所蔵/Wikipedia)

ただ、茶々も北政所さまとともに私のことは心配してくれました。下手をすれば大津城で死ななければならないところを、竜子さまと私を助けたいということで高次に開城するように勧めてくれたのです。

北政所さまが東軍寄りだったというのは嘘です。戦いの前に宇喜多秀家さまが豊国神社で行った戦勝祈願には北政所さまも参加されています。

また、北政所さまの兄の木下家定さまや子どもたちのほとんどは西軍寄りの立場でした。木下家定さまは三成さま挙兵のときには北政所さまの護衛と称し三本木にあったし、伏見城の守備をしていた嫡男の勝俊さまも弟の小早川秀秋が攻撃側の対象と聞いて、退去して護衛に加わっています。次男の利房さまは西軍に属し加賀大聖寺城攻撃に参加しました。

第一の側近である孝蔵主の縁者もみな西軍でした。小早川秀秋さまの裏切りも、北政所さまの勧めによるものと言う人もいますが、違います。

ただし、三男の延俊さまは姫路城の城番をしていましたが、細川藤孝さまの娘婿だったことから東軍につきました。

この北政所さまと茶々の立場を、尾張派と近江派ということで説明する人もいますが、秀吉さまがはじめて城主になられたのは長浜で、そこで大量に浅井旧臣などを抱えましたが、彼らは、そのころ、文字通り「女将さん」として大活躍していた北政所さまと親しい間柄になったのです。

側近ナンバーワンの孝蔵主も近江出身ですし、同じく三本木の屋敷には近江出身ともいわれる大谷吉継さまの母もいましたし、何より北政所さまは石田三成さまの娘を養女にしていたのです。

もちろん、北政所さまの姉の嫁ぎ先の浅野長政・幸長さまとか、秀吉さまと縁続きの福島正則さまのように東軍についた者もいますが、浅野さまは領地が甲斐だったうえに、長政さまが利長暗殺容疑で武藏府中に流されていましたし、正則さまも領地が尾張で会津攻めに参加していましたから、そこから抜けるのは至難の業でした。

しかも、浅野幸長さまや福島正則さまは、石田三成に個人的な恨みがあり、追い落としのクーデターの首謀者だったのですから、北政所さまの意図とは違うところで動いたのです。もちろん、彼らが東軍に参加していることで、東軍が勝っても北政所さまの立場は守られるということくらいはあったと思いますが。

小早川秀秋さまの裏切りについては、家康さまが家老の稲葉正成さま(春日局の夫です)などを籠絡した結果で、北政所さまとは関係ありません。

一方、茶々などわたくしたち三姉妹は尾張の織田家の血を引きますから、織田家の人々がたくさん取り巻いていました。ですから、茶々を近江派ともいえないのです。

細川家は忠興さまの嫡男である忠隆さまが前田利家さまの娘婿だったこともあって、家康さまから警戒される一方、前田利長さまの屈服後は加増を受けるなどし取り込まれていました。このため、忠興さま、忠隆さまは会津遠征中でしたが、留守をあずかっていた隠居の藤孝(幽齋)さまは、本拠の宮津でなく田辺(舞鶴)に籠城されました。そして、さんざん西軍をてこずらせたあと、「古今伝授」の廃絶を心配された後陽成天皇の仲介で面子も命も失うことなく開城されたのです。

このとき、大名の家族の多くは大坂にあって人質になりそうでしたが、細川ガラシャさまは、大坂入城を拒み、家臣の手にかかって殺されました。かねてから、舅の藤孝さまや夫の忠興さまは、その手はずを整えておられているようでした。忠興さまがガラシャさまを愛しておられなかったのではありませんが、逆に敵の人質などにされるくらいなら殺した方がましという少しゆがんだ愛情でした。なにしろ、ガラシャさまの姿を垣間見た庭師を殺したという忠興さまでございます。

一方、忠隆さま正室の千代さまは、逃げ出して無事だったのですが、ガラシャさまと運命をともにしなかったと忠興さまからなじられ、忠隆さまがかばわれたところ、忠隆さまは廃嫡されてしまいました。

ただし、実はこの忠隆さまの子孫がなんと現在の陛下のご先祖なのです。というわけで、陛下にはガラシャ様やまつ様のDNAが流れているということになるのです。(系図参照)

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「豊臣と徳川の真実④ 上杉景勝と福島城と若松城」はこちら
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