拓郎の父は朝鮮農業の父でもあった:吉田正廣の治績

高橋 克己

「世界の植民地の中で合法的に植民地になったところがどこにあるのか。右傾化した日本の政治家たちは韓国の強制占領を認めていない」とは、5月24日に漸く陛下から信任状が奉呈された姜昌一駐日大使が述べたことだ。斯く日本の朝鮮統治は韓国人にとって未だに忌まわしいらしい。

例えば、併合直後から18年11月まで行われた「土地調査事業」については、「土地所有権を確立することにより朝鮮総督府財政の財源としての地税を確立し、さらに地主的土地所有を擁護・育成すること」にあり、「地主層を単に支配的階級として育成するのではなく、日本帝国主義社会の要求に見合うような地主制を育成しようとした」との認識が存在する。

朝鮮総督府庁舎 出典:Wikipedia

また、農民の食糧自給や経済的向上を図るべく実施した「産米増殖計画」としての「農村振興運動」や「朝鮮農地令」などについても、従来の「地主的農政から農民的農政への転換を目的」としたが、「資本・技術の不足、経営規模の零細性、植民地地主制の強固な存在の下では不可能だった」との評価がある(「産米増殖計画期の日本と朝鮮」近藤郁子)。

実は、この「朝鮮農地令」は吉田拓郎の父正廣の手になるものだ。本稿では「土地調査事業」や「産米増殖計画」などの諸施策の評価の適否はさて措き、朝鮮総督府の一官吏だった吉田正廣が、いかなる心構えで朝鮮の農業政策に関わり、そしていかなる治績を挙げたかについて見てゆく。

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「評伝 朝鮮総督府官吏・吉田正廣とその時代」(清文堂:21年1月)は、広島修道大坂根嘉弘教授の労作だ。音楽好きなら気付くことだが、広島修道大は拓郎の母校。だが坂根がそのことをきっかけに同書を書き始めたのかといえば、そうでないところがまた興味深い。そこには偶然や奇縁がいくつも重なった。先ずはそこから紹介したい。

坂根は京大大学院農学研究科博士課程を修了後、鹿児島大文学部助教授を務め、広島大経済学部教授を経て、現在は広島修道大商学部教授の職にある。専門は近代日本経済史で、著書には「農地政策」や「軍港都市史」に関するものが多い(同書の著者略歴)。

正廣は日清戦争直後の1895年12月、現在の鹿児島県伊佐市に生まれ、15年に県立鹿屋農学校を卒業、17年10月朝鮮総督府京畿道技手に奉職した。以来、終戦による46年1月の引揚げまで足掛け30年間、総督府にあって農業政策に関わった。一家は55年春に広島に転居するが、県職員として「県史」編纂などに携わっていた正廣は、鹿児島で単身生活を送った。

次男の拓郎は46年4月に鹿児島で呱々の声を上げた正廣知命の年の子だ。10代半ばで広島に移った彼は広島商科大(今の広島修道大)に進学、その前後からフォークの神様として時代の寵児になる。坂根は学問を通じて正廣を、勤務先の卒業生として拓郎をそれぞれ知りながら、二人がまさか親子とは想像の外だった。

ここにもう一つ偶然が重なる。それは広島修道大人文学部教授の針持和郎。和郎は正廣の妹の長男針持健一郎の次男、つまり正廣は和郎の大伯父だった。これほどの奇縁が重なり、且つまた正廣の先行研究が希少となれば、坂根の知的好奇心は弥が上にも高まる。それを満たす資料の収集には、同僚の和郎が大いに貢献した。

政府は朝鮮統治を、15年前に領有した台湾、李鴻章が「化外の地」と呼んだ島を、児玉源太郎総督と後藤新平民政長官の8年間の治政で、内地の支援を必要としない財政黒字の地に変えた一連の手法を模して行った。その一つ「旧慣調査」は、医師の後藤が「生物学的原則」と称した「平目の目を鯛の目にはできない」として行ったものだ。

つまり、統治先の旧来の慣行を無視して、闇雲に日本流のやり方を押し付けても上手くいかない。それまでのやり方をよく調べ、現地住民の利益を損なわないように配慮しつつ、その不合理、不公平、非効率な部分を徐々に改善してゆくという手法だ。

但し、筆者(高橋)は朝鮮での反日感情が未だに良くない理由の一つに、台湾ほど時間を掛けずに「内地延長主義」を採ったことがあると考えている。「一視同仁」という善意のなせる業だが、台湾の同主義採用は初の文官総督田健次郎の時代で、領有後20数年を経過した後だ。が、それでも少なからぬ反発があった。

さて、先述の「朝鮮農地令」の前身は正廣の作成した「朝鮮小作令」だ。総督府は22年、正廣の手になる浩瀚な調査書「朝鮮ノ小作慣行」を刊行した。正廣の治績に係る坂根の論述は、正に学者のそれで極めて学問的だ。同調査書の「朝鮮における小作農民の貧困に関する私考察」について次のように書いている。

(吉田は)小作農民の生活が貧困であることの原因を、収入面と資質面から論じ、かつ農民が貧困でありながらその生活を維持し得ている要因を幾つか指摘している。貧困の理由を約言すれば、「無知」が農民を歴史的不幸に導いているとし、しかし彼らは「無知」ではあっても「愚鈍」ではないのであり、「無知」の殻を破れば農民の生活は向上するであろうと述べて、適切なる施設、制度、政策の徹底的な施策が重要と強調している。このような見方は、当時の総督府官吏の一般的な認識であった。この主張が後の朝鮮農地令や農村振興運動につながってゆく。

宇垣一成総督は、正廣の小作令制定案を熱烈に支持し、小作期間は五年を下らないこと、永年作物は長期とすること、中間小作(搾取)を取り締まること、舎音(しゃおん)を厳重に取り締まること、反対運動には屈しないことの五項目を見解として示した。

これに明らかなように、旧来制度は、小作期間が不定期(1~3年)かつ解約は地主の任意、地主が替わると小作人も替わり、作付け品目は地主が種子を支給、小作権相続も一般的でなく、舎音による搾取が激しいなど、小作人に甚だ不利。それゆえ丹念に施肥するなどの土地への愛着も湧き辛い、生産性の上がりにくい制度で、当年の収穫さえ得られれば良いとする掠奪農法に陥りがちだった。

舎音とは、地主から小作地の管理や小作料の徴収を委任された代理人のこと。日本の類似の差配人は在村の地主や自作・小作人が多く、村社会の一員として行動した。が、舎音は地元民でない非農業者が多いため、私腹を肥やす機会主義的な行動が蔓延し、大きな農村社会問題となっていた。こうした朝鮮人舎音の管理する面積は全小作の24%に上った。

しかし正廣の小作令案は在朝日本人地主を中心に猛烈な反対運動に遭う。とくに日本人地主の多い米産地の全羅道(朝鮮半島南部の西側。文大統領の選挙区で左派支持者が多い)でそれが顕著だった。表向きの反対理由は、日本よりも先駆的な小作令の内容を時期尚早とするもの。だが、既得権の一部を失うことへの抵抗が根底にあったことは容易に想像できる。

結局、地主の反対の大きかった小作期間を3年以上としたことや宇垣総督府による反対派・支持派双方への抑制策などが奏功し、また名称も時期尚早論を抑え込むべく「朝鮮小作令」から「朝鮮農地令」に変更、こうして正廣の苦労は34年4月の公布という形で実ったのだった。総督府奉職後17年が経っていた。

筆者は、拓郎が朝鮮での父の治績を知らなかったことが、いかにもこの愚直な父らしく、またこの先駆的な子らしい、と改めて好感を持った。ハングルに翻訳され韓国人に読まれるべき価値のある著作と思う。