韓国とどう付き 合っていくべきか〜体験的対韓外交論(金子 熊夫)

外交評論家 エネルギー戦略研究会会長 金子 熊夫

5回にわたって「中国とどう付き合っていくべきか」を論じたので、ついでにもう一つの重要な隣国、韓国とどう付き合っていくべきかについても、簡単に触れておきたいと思います。

私自身は外務省在職中、韓国関係を専門に担当したことも、韓国に長期在勤したこともありませんでしたが、いろいろな時期に、さまざまな形で韓国と関わってきました。

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韓国問題との最初の遭遇

初めて韓国と密接に付き合ったのは、ベトナム戦争最盛期の1960年代半ば、私がサイゴン(現ホーチミン市)の日本大使館に政務担当書記官として勤務していた時で、韓国は参戦国の一つでした。

当時韓国は軍部主導の朴正熙政権でしたが、朝鮮戦争(50〜53年)以後米国から多大の軍事経済援助を受けてきたお返しに、ベトナム戦争に軍を派遣していたのです。日本は、米国政府の要請にもかかわらず、最後まで「非参戦」を貫きましたが、韓国は戦闘部隊を派遣する以外に選択肢がなかったと考えられます。

韓国軍の精鋭部隊は「タイガー部隊」と呼ばれ、ベトコン(南ベトナム人民解放軍)との戦いの最前線で大いに活躍しました。その分だけ、韓国はべトコン支持者や一般ベトナム人の恨みを買っていたわけで、当然韓国の外交官や軍関係の民間人も命を狙われており、苦しい立場にありました。このため、韓国は、ベトナム戦争終結(75年)後も長い間、ベトナムに対して「負い目」を感じていたようです。

ちなみに、猛者ぞろいの「タイガー部隊」も苦戦が続くと士気が衰えるので、その都度本国から大量の「キムチ」を持ち込み、兵士のスタミナを養っていました。生来、辛い物好きの私も時々お裾分けしてもらっていました。ただ、仕事の関係であまり韓国の外交官たちと密接に付き合うと、ベトナム人には日本人と朝鮮人の区別がつかないため、ベトコンから狙われる恐れがあると言われていたので、その点はいつも用心していました。

日韓の深い関係と歴史的遺産

次に、私が初めて韓国を訪問したのはベトナムから帰って外務本省のアジア局で韓国との経済関係を担当していた時です。日韓基本条約締結(65年)の3年後、日韓交流がようやく本格化しつつあった時期で、海運協定交渉を行うため、頻繁に訪韓しました。

当時韓国は、朝鮮戦争のダメージを克服し、日本からの経済協力(実質は戦争賠償金)をテコに、急ピッチで経済成長を遂げつつあった時代で、首都ソウルは「漢江の奇跡」と呼ばれた経済復興の意気込みであふれていました。当然日韓間の貿易も活発で、海運関係の紛争やトラブルを解決する必要があったのです。

条約交渉の場で韓国側は激しい口調で国益を主張し、そのしつこさはこちらがへきえきするほどでしたが、交渉が一段落した夜、先方の招待で開かれた懇親会の席では、打って変わって和やかな態度で、盛んに日本語で話しかけてきました。当時は、戦前の学校教育で日本語を義務的に学習させられたので日本語が流暢な人が多かったわけです。

酒に酔ってつい本音が出たのか「日韓は元々、旦那とめかけのようなものだったのだから、日本はもっと面倒を見てくれてもよいではないか」などと口走る人もいて、戸惑った記憶があります。独立国同士の対等な関係というより、かなり屈折した対日感情が積もっていることを嫌というほど痛感させられました。

なお、当時は、昔風の妓生(キーセン)が多数宴席にはべっていて、至れり尽くせりのサービスをしてくれましたが、中にはかなり教養のある人もいて、朝鮮戦争時代の体験談を詳しく聞かせてくれました。時には彼女らの案内で、板門店の軍事境界線(38度線)や朝鮮戦争の激戦地を見学したこともあります。

こうした人間的な交際を通じて、韓国の人々が味わった苦悩や悲哀を具体的に知ることができたのは、その後韓国との外交交渉を進める上でプラスになったと思います。

慰安婦問題と対日感情の悪化

こうして何とか順調に育ち始めた日韓の友好関係は、しかし、いつの頃からか、急にギスギスしたものに変わっていきました。それは、その後韓国が着実に経済力をつけ、国際的地位が向上したのに伴い(1988年のソウル・オリンピックが象徴的)、自信がついてきて、日本に対してライバル意識を持つようになった結果でもありましたが、日韓関係悪化の直接のきっかけとなったのは、やはり「従軍慰安婦」問題であることは否定できません。

慰安婦像
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この問題は、極めて複雑なのでここでは深入りを避けますが、非常に根が深く厄介な問題です。実は、私が初めてこの問題の難しさに気づいたのは、朝日新聞など一部の日本のマスコミが火をつけるよりずっと前の80年代初め、約1週間かけて韓国各地(特に大田から慶州周辺)を歴訪した時です。

読者諸賢はご記憶のように、この旅行中に私は、かつて百済の首都であった扶余(プヨ)で偶然、故佐藤泰舜禅師(元永平寺貫主、新城市の曹洞宗勝楽寺住職)の「日中不再戦」の石碑を見つけて感動しましたが、その扶余郊外のある古寺を見学した時のことです。

四百年前の日本軍の乱暴狼藉

本堂の壁に描かれた極彩色の縁起物には、豊臣秀吉の朝鮮征伐(文禄、慶長の役)で侵攻してきた日本軍の乱暴狼藉ぶりが生々しく描かれていましたが、とくに宮殿勤めの若い女官たちが、日本兵に強姦されまいとして、高い崖の上から白衣を翻して次々に白馬江に飛び込むさまは、衝撃的でした。たまたま、近くの小学校の生徒たちが見学に来ていましたが、この壁画の前で、先生の説明を聞きながら「日本人はなんて野蛮な人間なのだ!」と口々に叫んでいました。こうした歴史教育は、韓国では徹底しているようで、反日感情を子どもの時から叩きまれるようです。

日本では、韓国人の反日感情と言えば、日韓併合(1910年)以後の日本統治時代の人種的差別や「残虐行為」が原因と考えがちですが、彼の地では、400年前の秀吉時代からの怨念が積もり積もっているわけです。

正直に言えば、小生自身もそこまでの歴史認識は持っていませんでしたが、後日、京都へ行った機会に、東山の豊国神社の「耳塚」(討ち取った朝鮮将兵の耳や鼻をそいで、塩詰めにして持ち帰ったものを葬った塚)を見て、納得せざるを得ない気持ちになりました。ただ、ここを訪れる日本人も、そうした歴史的事実を知る日本人も少ないことを思うと、日韓の歴史認識のギャップの大きさに暗然たらざるを得ません。

余談ですが、ついでに触れておくと、ソウルの南方約100キロ、大田(テジョン)の手前の天安(チョナン)には、独立記念館が建っています。私は退官後、大学で教えていたころ、ゼミの学生を連れて何度か見学しましたが、東京の靖国神社の遊就館を模した壮大な施設で、中には日本統治時代の日本軍によるさまざまな「残虐行為」などが、ろう人形を使って生々しく再現されており、日本人としては正視に耐えないほど。韓国人は当然ながら、食い入るように見つめ、日本人の残虐性を目に焼き付けるとともに、日本人に対する敵対心を強めるようです。

同様の施設は韓国だけでなく、中国にも多数ありますが、これらは、当該国政府の明確な意図の下に建設されたもので、反日教育と愛国心養成を目的としたものであることは明らかです。

求められる日本人の忍耐力

よくいわれることですが、加害者はすぐ忘れても、被害者はいつまでも忘れないのは人間心理の常であり、日韓の民族的感情のズレはおそらく今後何百年も続くでしょう。従って、私たち日本人としてもその覚悟で、今後とも忍耐強く交流関係を続けていく以外にないと思います。双方で、売り言葉に買い言葉を繰り返しているだけでは進展はありません。

最近私も、韓国製の歴史ドラマを時々テレビでみますが、それらを通じてつくづく思うのは、大昔から朝鮮民族は中国(唐、明、清等)と日本の間で揺れ動き、難しい外交上の選択を迫られてきたわけで、そうした宿命を彼らは負わされているのです。そのことにも私たちは隣国人として思いをはせる必要がある、つまり、それだけの心構えが求められるのだと思います。

どうも深刻な話になってしまいましたが、だからといって今後日韓関係改善の見込みが全くないわけではありません。現在の文在寅(ムン・ジェイン)政権は、行き過ぎた反日政策で外交上行き詰まり状態にあり、国内人気にも陰りが見えています。彼は来年3月の大統領選挙には再出馬できないので、代わりに誰が当選するか分かりませんが、政権が変われば対日政策も変わる可能性があります。

草の根の日韓交流に期待

その可能性を期待して、私たち日本人も、民間レベルでの日韓関係改善の火を消さないように努力する必要があります。その一環として、私は恩師の故中西光夫先生(元新城市教育長)が主導された「沙也可」(秀吉の命令で朝鮮に出兵した武将の一人で、日本軍の行動に疑問を感じ、朝鮮側に投降、帰化した実在の人物)の子孫との交流活動をぜひ再開してもらいたいと考えています。中西先生没後、中断したままのようですが、こうした草の根レベルの交流こそ今最も求められるものでしょう。

心ある人々の奮起を切に期待しています。

(2021年9月5日付東愛知新聞令和つれづれ草より転載)

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編集部より:この記事はエネルギー戦略研究会(EEE会議)の記事を転載させていただきました。オリジナル記事をご希望の方はエネルギー戦略研究会(EEE会議)代表:金子熊夫ウェブサイトをご覧ください。