歴史学者はいかに過去を捏造するのか:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える⑩

與那覇 潤

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私はポストドクターを入れると大学院に5年半在籍し、続けて地方公立大学の准教授として7年半教鞭をとったので、通算すれば13年間は「歴史学者」として仕事をしたことになる。その最中から歴史学の教育にまつわる営みが、ひとつ間違えば危険なものにも転じうる可能性をずっと感じていた。

たとえば一般の読者が本選びのヒントにするのは、帯や惹句、あとがきや解説だと思うが、歴史学者は手にとった書籍のうち、最初に「注」を見る癖を持つ人が多い。主張の典拠として一次史料を引用した場合、(専門書では)出典表示のために必ず注をつけるので、まずはざっと注だけを一覧すれば、その本がどの程度「オリジナルな研究か」をつかめるからだ。

しかしこれを悪用すると、中身もないのにとにかく注ばかりを増やして、一見すると「本格派の研究書」を装うテクニックが生まれてしまう。さすがに書籍は精読されれば見抜かれるが、スマホで軽く「流し読み」する人も多いネット記事なら、「いっぱい典拠を挙げているから、たぶん本当なんだろう」といった印象で読者を騙しきることも、不可能ではない。

未公刊の博士論文のほか、学術論文3本の業績を有する嶋理人氏(日本史学。熊本学園大学講師)が、11月8日に発表した本連載への批判はその典型であった。リンク先に「呉座勇一氏が女性差別をしていた証拠があるのだ」(大意)といった「出典表記」を散りばめつつ、実際にはリンクを踏んでも呉座氏の発言が出てこないという彼の不誠実な論法については、すでに連載第4回で明らかにしたところである。

むろん嶋氏の記事には、リンクではなく呉座氏の発言のスクリーンショットを実際に示して(=文中に引用して)、自説を組み立てている箇所もある。しかしそこにもまた、堕落した歴史学者に特有の読者を欺く技法が潜んでいる。

歴史学の書籍に「一次史料の引用文」があった際、特にそれが古文・漢文や外国語だと誰にでも流暢には読めないので、ざっと読み飛ばす一般の読者は多いだろう。実は歴史学者自身も、査読や書評を依頼された場合でなければ、「ひとまずは著者(=引用者)による読解が正しいものだと信じて」、そうした読み方をする例はままある。いかに学者とて、すべての時代のあらゆる言語に精通することはできないから、ある程度はやむを得ないことだ。

もちろん、著者の主張があまりに大胆で通説的な歴史像と異なる場合は、「ほんとうに、この引用史料からそこまで言えるのか?」として、専門的な辞書を持ち出してでも引用文を細かく精読するのがプロの学者である。しかし逆にいうと、読者が事前に持っているイメージに合致した主張を行うかぎりでは、杜撰な引用でも見過ごされるリスクは意外に高い。そうした欠点を自覚しつつ、たえず克服に努める人こそが、正しい意味での研究者であろう。

ところが嶋理人氏の記事は、むしろ同じ欠点を悪用し、「呉座氏は現に炎上した以上、きっと差別発言をしていたはずだ」といった既存の先入観に便乗することで、不正確な資料引用を繰り返している。

たとえば嶋氏は、「東専房」なるハンドルネームの日本史家と呉座氏とのTwitter上の会話を引用し、「呉座さんの東専房さんへの発言には、アカハラ的なものもありますし、学問的な議論というよりは人格攻撃に近く、意義のある議論を生みそうにありません」(嶋氏の原文ママ)と論評する。

たしかに嶋氏の引用だけを見ると、呉座氏の側が「論文出してから言えや」(原文ママ)など強い言葉を使っているため、読者は嶋氏の解釈が正しいかのように誘導される。しかし、嶋氏が引いていない発言も含めて配列した「呉座勇一先生と植田真平先生とのトラブル」の全体を読むと、実態はまったく異なっていたことがわかる。

そもそも植田氏(東専房)は「研究者の人格や内面と、その業績の評価とは切り離せるか」(大意)をめぐって、呉座氏と親交のある学者の亀田俊和氏や木村幹氏と議論になり、その延長で「ジェンダー的な視点は今後前近代史研究のどんな分野でも外せない」・「ジェンダー的な視点を含め自身のものの見方について研究者が無知や無自覚であることは、許されることではない」(植田氏の原文ママ)と主張していた。

それに対して呉座氏は、以下の2ツイートを含めて少なくとも3回、植田氏をたしなめる発言をした上で、なお自説を譲らない植田氏にキレたというのが実際のプロセスである。怒り方の品位はともあれ、「アカハラ的」に上下関係のある相手を一方的に罵倒した事実はない(そもそも両名は同じ職場でもない)。

また嶋氏は、呉座氏には「民族差別発言もあったのです」と断じた上で、その認識に立たない私を「実証に基づかず、事実を捻じ曲げているのは與那覇氏です」(ともに原文ママ)と批判する。しかし長大な彼の記事には――リンク先も含めて――どこにも呉座氏が行った「民族差別発言」の具体例がない

ひょっとすると嶋氏が、呉座氏による「民族差別」を「実証」したと勘違いしているように思われる引用資料は、以下の2つのツイートだ。

左は2012年の『琉球独立への道』以来、呉座氏の発言以前に3冊、今日までには計6冊もの「琉球独立」の語をタイトルに含む書籍を刊行している、松島泰勝氏個人への批判に過ぎない。2017年春の朝日新聞による世論調査でも、日本からの独立を望む声は沖縄県内の有権者の4%であり、琉球独立論を実現可能性が乏しいとして棄却することは、「沖縄ヘイト」のような民族差別とはまったく異なる。

右は(おそらく)従軍慰安婦問題に関して、朝鮮半島でのいわゆる狭義の強制連行の存在は立証されていないという「事実」を、文字どおり確認しているだけである。そこから謝罪や補償の必要性を否定するような文面では特にないし、まして韓国人に対するヘイトスピーチを展開しているのでもない。

要するに嶋氏は、「琉球独立論に共感すべきだ」「狭義でなく広義の強制連行のみに注目すべきだ」という自らの価値観(それ自体は嶋氏の自由である)を史資料に投影した上で、それに合致しない呉座氏の発言に「民族差別」のレッテルを貼っているだけなのである。こうした自身のイデオロギーの表明を「実証」と取り違える研究姿勢は、悪辣というよりは能力の低い歴史学者によく見られる特徴で、私も大学に勤務中はずいぶん嫌な思いをさせられた。

かくしてひとつも「民族差別発言」の証拠を示さない嶋氏は、なんと「引用はしませんが部落差別やヨーロッパへの偏見もあります」(原文ママ。強調は引用者)とさえ述べ、文字どおり根拠なしに呉座氏を部落差別者だと決めつける。さらに11月23日の続編では、あたかも論証済みの事実であるかのように「呉座さんの差別と誹謗中傷のツイートは、女性や研究者のみならず、地方出身者、沖縄の基地問題、BLM、「慰安婦」問題、EUの男女平等活動、部落問題にまで及んでいました」(同)と、やはり論拠を挙げずに連呼している。

控えめに言って、嶋氏が行っているのは呉座氏に対する名誉毀損であり、より強く言えば、原告の印象を悪化させることを通じた地位確認訴訟への妨害行為だ。こうした人物が歴史学者を名乗りつつ、呉座氏の発言を「実証的に読み解いた結果が本論です」(原文ママ)などと喧伝する事態を放置するなら、歴史学界の全体が呉座氏へのネットリンチを事実上容認したものと、広く一般に受けとめられてもやむを得まい。

嶋氏のように実際にはなにも「実証」できない歴史学者が、最後に持ち出すマウンティングの手法も、かつて同業者だった私はよく知っている。史資料に対する「アクセスの困難さ」をその「質」とすり替えて、ここまで手に入れにくいデータを集めてきた以上は「俺の主張こそが実証的であり正しい」と勝ち誇るのだ。

実はそうした「擬似実証」の手法は、歴史学界が対峙してきた(悪しき)歴史修正主義でも応用されている。海外の外交文書館の収蔵物など、一般には入手困難な史料をことさらに持ち上げて、実際には「後に棄却された伝聞情報」に過ぎない内容を「史実の証拠」として持ち出すといったやり方だ(秦郁彦『陰謀史観』の第4章が、実例を挙げて批判している)。

とはいえ、11月8日の記事で嶋氏が壮語した以下の発言は、それらと比べてもブラックジョークとして際立っている。

いまや5ちゃんねる情報を基に「実証」を誇る歴史学者がいるわけだが、2020年1月に立てられた呉座スレッドの「5」の途中で北村紗衣氏との係争(21年3月)が発生したため、嶋氏が誇示する16スレッド分のデータの大部分は、炎上の最中に「呉座叩き」の目的ありきで匿名のユーザーが文脈を切り取って投稿したものに過ぎない(スレッドの「15」が立つのが、オープンレター公表直後の21年4月6日)。そうしたバイアスに無自覚な研究者を、一般には「史料批判ができない人」と呼ぶ。

なぜ歴史学――とりわけ実証史学の教育カリキュラムは、嶋氏のような人物を生み出してしまうのか。いささか詩的な物言いにはなるが、彼ら歴史学者の多くが平素「歴史を観察する」のみに留まり、自ら「歴史を生きる」という姿勢を欠いていることが、問題の深層にあると思えてならない(詳しくは拙著『歴史なき時代に』を参照)。

たとえば戦前、皇国史観の教祖と呼ばれた平泉澄(日本中世史。東京帝国大学教授)に、「豚に歴史はありますか?」という悪名高い言葉がある。民衆(百姓)の歴史を研究したいと申し出た指導学生を侮蔑して、「そんなものに価値はない」との趣旨で言い放ったものだ。

学者は(平泉のように)自身の価値観で安易に他者を裁断してはならず、少なくとも自らの世界の捉え方自体が偏っている可能性を、つねに留保しなくてはならない。悠遠な日本史叙述であれ、直近の「炎上」の再検討であれ、そうした往時の歴史学の反省を踏まえた上でなされるのなら、嶋氏のような独断に陥ることはないだろう。たとえばそれが、私の考える「歴史を生きる」営みである。

一方で出身学部としては平泉の系譜を引き、かつ実証的な歴史学者たることを自称する嶋氏には、そうした意識は微塵もないようだ。彼が「墨東公安委員会」名義のTwitterで行った、今年1月の以下の発言を見れば、そのことは瞭然であろう。

私自身は、「オタク」を名乗れるほどマンガやアニメに造詣が深くない。だから彼ら/彼女らを勝手に代弁して、この発言について嶋氏を糾弾することもしない。

しかし少なくとも、嶋氏の「差別と誹謗中傷のツイート」によって侮辱された人々が、「豚とはあなたのことであり、豚に歴史は書けますか?」と反駁するくらいの権利は、認められてしかるべきだと思う。そして言うまでもないことながら、豚の嘶きは学問ではなく、豚に歴史を書くことはできない。

【追記:12月8日】

7日早朝に公開した本稿に対して、同日深夜に嶋氏が事実上の「敗北声明」(と私は受けとった)を掲載した。「前もって脱稿していた」(大意)と自称して今回の指摘には一切答えない内容と、すでに以前の回で私が反論済みの関係者によるツイートを大量RTした後に紛れ込ませる嶋氏のTwitterの使い方と合わせて、当否の判断は読者に委ねたい。

嶋氏を典型として、過去のある時点で「いま」はこれが自明の正しさだと感じられた営為の問題点が、「後で」判明したときに、真摯に自己を省みるのではなく不正を重ねて乗り切ろうとする人文系研究者の論理と心理については、嶋氏以外の事例も踏まえつつ次回論じる予定である。

與那覇 潤
評論家。歴史学者時代の代表作に『中国化する日本』(2011年。現在は文春文庫)、最新刊に『平成史-昨日の世界のすべて』(2021年、文藝春秋)。自身の闘病体験から、大学や学界の機能不全の理由を探った『知性は死なない』(原著2018年)の増補文庫版が11月に発売された。

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