東京都交響楽団 × ジョン・アクセルロッド

昨年11月の来日以来、指揮者が来られない日本の多くのオーケストラの「お助けマン」となって、予定されていた数々のコンサートを救ったジョン・アクセルロッド。アクセルロッドの指揮を初めて聞いたのは2015年のサントリーホールのオープニング・フェスタだった。

この夜彼は信じられない数のオペラアリアと間奏曲をたった一人で振り、たくさんの歌手をサポートし、汗だくになりながらもにこやかで「こんなにすごい体力がある指揮者は日本人にはいないな」と感心した記憶がある。その後、N響と共演したジャズ・コンサートでも陽気なキャラクターを生かした指揮が好印象。世界中のオーケストラを振り、オペラ歌劇場の信頼も篤い人気のコンダクターとなった。

昨年12月の都響との初共演で、今まで意識したことのなかったアクセルロッドの音楽への違和感を感じた。ストラヴィンスキー『火の鳥』の冒頭のバス音が、機械のパルス音のようで、ロシアのおとぎ話を想像できず、最後までオケは「書かれた音符をひたすら厳密に鳴らしている」という印象だった。

自分の思い込みが激しいのかも知れない。それから間もなくして読響の「第九」で再び彼の指揮を聴いた。感想はほぼ同じ。都響のほうがレスポンスが鮮やかで、スーパーフラットな指揮者の「解釈」を映し出していた。

都響との二度目の共演は、聴こうかどうか迷った。好意的に聴けないのならコンサートには行かない方がいい。でも、もしかしたら最後の和解のチャンスがあるかも知れない。一曲目のチャイコフスキー『エフゲニー・オネーギン』のポロネーズは溌剌としていい感じ。

神経質になって聴くと微妙な歌いまわしが野暮ったいような気もするが、華やかで運動感もあって、元気いっぱいのオーブニングだった。

2002年生まれの富田心さんがソロを弾いたグラズノフの『ヴァイオリン協奏曲 イ短調』は、ヴァイオリニストの天才的な表現力と緻密な演奏に聞き惚れた。

グラズノフのコンチェルトはところどころ聴きなれたコルンゴルトのコンチェルトを連想させたが、技術的にはもっと難しいのではないかと思われた。冨田さんは天才の部類に入る演奏家だと思うが、技術だけでなく既に自分自身の魂を音楽に乗せることを成しえている。

揺るぎない才能を感じた。コンマスの矢部達哉さん率いるオーケストラも優美だった。

今日のアクセルロッドなら、OKかも知れない。淡い期待を抱きながら後半のチャイコフスキー『交響曲第4番』を聴いた。アクセルロッドはバーンスタインの薫陶を得た人らしいが、聴いていてカラヤンを思い出した。カラヤンは生で聴いたことがない。『カラヤンがクラシックを殺した』という本を思い出した。もう一度読み返そうとしたが、本が出てこない。

オーディオマニアのカラヤンは、音響的にデラックスな演奏と録音を生産してクラシックの裾野を広げたが、カラヤン以前のマエストロが持っていたアウラのようなものを殺した、というような内容だったと記憶している。

アクセルロッドは素晴らしい耳を持っている。それだけでなく、厳密に楽譜を再現することにプライドをかけている。正統派といえば正統派なのだが、イマジネーションが欠落している。演奏家は楽譜の完全なる再現を目指す、という理念が徹底していて、プレイヤーに脚色をさせない。

Twitterで見る都響のリハーサルは和気藹々としていたから、嫌な感じではなかったのだろう。否定的な感想を書くと、共演を楽しんでいた演奏家に申し訳ない気持ちになる。しかし、最後までこのチャイコフスキーには共感できなかった。

今回の長い滞在でアクセルロッドはN響とも共演しており、こちらは聴いていないが、N響なら問題がないような気がする。都響がN響っぽい音楽だった。恐れずに言うなら、楽理的な演奏で、チャイコフスキーの4番が細かく分断され、研究されているのが分かった。精巧な部品が合体したような音楽なのだ。バラバラにされた膨大なディテールが統合されていて、隙がない。

それこそが、この音楽を好きになれない理由だった。楽譜を楽譜通り正確に、その瞬間の響きを完璧に…音楽全体の肉体や精神や生態系(?)が存在しなかった。しかし、この「精巧な部品の集積」という演奏は、日本のオーケストラ・ファンが好むところであると思う。予想通り、この演奏会は好評だった。ほとんど悪い感想を書いている人はいない。

デカルトに端を発すると言われている「要素還元主義」は、先端的な知の世界ではオールドファッションとされている。アカデミズムはいまだ要素還元主義を大切にしている。専門性を狭く高く垂直に積み上げ、垣根を高くする。このアカデミズムの手法と、なぜか日本のオーケストラの聴衆は相性がいい。いろいろな専門を横断する、あるいは統合しようとする聴き方はマイナーどころか、存在意義さえ認められない。

評論家は専門家だらけなのだから、自分は素朴な農夫のように音楽を聴きたいと思ってきた。農夫は本の知識を持たないが、そのほかのわずかなことに自足し人生全体を拓いていく。クラシックは自分にとって、生き方を拓いてくれる芸術で、尾高さん、小泉さん、秋山さんの演奏からは、音符だけでない巨大な何かを毎回もらう。

「専門分野を越える『何か』とは何かを端的に証明しろ」と言われると言葉を失う。相手は「楽譜」という大きな武器を持っていて、こちらは丸腰なのだ。分野を横断などということを言っても、槍や鉄砲でやられるだけである。

カラヤンで思い出したが、カラヤンのシンフォニーは感情移入できないものが多いが、オペラはまた別で、カラスが歌った『蝶々夫人』の録音があまりに完璧なので、指揮は誰かと思ったらカラヤンだった。アクセルロッドもオペラはいいのかも知れない。先入観にとらわれず、機会があったら彼の指揮するオペラを聴いてみたい。


編集部より:この記事は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」2022年2月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」をご覧ください。