正教会分裂がウクライナ危機を誘発?

ロシア正教会の最高指導者モスクワ総主教キリル1世はジュネーブに本部を置く世界教会協議会(WCC)宛てに返答の書簡を送った。WCCは3月2日、キリル1世にロシアのプーチン大統領のウクライナ侵攻を止めさせるために調停を要請していた。キリル1世がロシア正教会のトップであり、プーチン大統領とは深い繋がりがあるからだ。WCCが10日、その内容を公表した。

モスクワ総主教キリル1世(2022年3月10日、WCC公式サイトから)

WCCのイオアン・サウカ事務局長代理によると、キリル1世は、「対立の起源はロシア国民やウクライナの人々からではない。キエフの洗礼盤から生まれたロシアとウクライナの人々は共通の信念、聖人と祈りによって団結し、共通の歴史的運命を共有している」と説明。そのうえで、①北大西洋条約機構(NATO)は過去、東方拡大でロシアに安全保障上の危機感を与えてきた、②ウクライナ正教会のモスクワ正教会からの離脱(教会シスマ)とその教会分裂を公認したコンスタンチノープルのバルソロメオス総主教にも今回の戦争の部分的責任がある、と主張し、「ロシアを弱体化させることを目的とした大規模な地政学的戦略の一部だ。西側は反ロシア感情(ルッソフォビア)を広めている。欧米諸国の対ロシア制裁は単に指導者だけではなく、国民に多大の痛みを与えている」と非難している。

少し説明する。ロシアとウクライナ両国の主要宗派は正教会だ。ソ連邦が解体し、ウクライナが独立するとロシア正教会下にあったウクライナ正教会は一時、3分割された。ロシア正教会の管轄権から独立を願う声がキエフ総主教に所属する正教会から出てきた。コンスタンチノーブル総主教庁はウクライナ正教会の独立に反対していたが、ロシア正教会がバルカンの正教会圏を主管下に置こうと画策してきたことに不快を感じ、キエフ総主教下のウクライナ正教会の独立を2018年10月に認めた。それを受け、キエフ総主教所属の正教会は同年12月15日、独立正教会と統合し、「ウクライナ正教会」を創設した。すなわち、ウクライナには、2018年に発足した「ウクライナ正教会」と、ロシア正教のモスクワ総主教庁と関係を維持する「ウクライナ正教会」が存在するわけだ。

教会分裂の結果、ロシア正教会は332年間管轄してきたウクライナ正教会を失い、世界の正教会で影響力を失う一方、モスクワ正教会を通じて東欧諸国の正教会圏に政治的影響を及ぼそうとしてきたプーチン氏の政治的野心は一歩後退せざるを得なくなった。

キリル1世の書簡の中で注目すべき点は、2018年12月のウクライナ正教会のモスクワ正教会からの離脱がプーチン氏のウクライナ侵攻への引き金となったことを示唆していることだ。プーチン氏自身はNATOの東方拡大阻止をウクライナ侵攻の第一理由に挙げている。

インスブルック大学宗教社会学のクリスティナ・シュトケル教授はオーストリア日刊紙「スタンダード」(3月11日付)の中で、「(正教徒の)プーチン氏は大統領3期目に入ってからはキリスト教価値観の保護者を自負し、ロシア正教会を民族のアイデンティティを守る拠点と受け取ってきた」と指摘している。

プーチン氏は先月24日、戦争宣言の中で、「ウクライナでのロシア系正教徒への宗教迫害を終わらせ、西側の世俗的価値観から守る」と述べている。プーチン氏にとって、ウクライナ正教会のモスクワ正教会離脱はレッドラインを超えたことを意味したのかもしれない。

キリル総主教は、「WCCが歴史を通してそうであったように、困難な時代においても、政治的選好や一方的なアプローチから解放された公平な対話のためのプラットフォームであり続けることを期待する。主がロシアとウクライナの人々を保護し、救うように!」という言葉で手紙を締めくくっている。プーチン氏にウクライナ戦争の中止を求めるために努力する、といった内容は記述されていない。

ロシアのウクライナ侵攻後、1961年に加盟したロシア正教会をWCCから追放すべきだという声が高まっている。WCCは122カ国、352教会が所属し、加盟宗派の信者総数は5億8000万人だ。ローマ・カトリック教会はオブザーバーとして参加している。

キリル1世がプーチン大統領を批判したとしても、政治的には影響は少ないかもしれないが、ロシア国民には大きな波紋を呼ぶことが予想される。ロシア正教会はソ連時代から国家との関係が深く、ある時は癒着してきた。キリル1世は2009年に総主教に選出されて以来、プーチン氏とは密接な関係を保ってきた。

なお、ウクライナ危機に対するキリル1世の沈黙に対し、総主教下のモスクワのロシア正教会で200人余りの聖職者がロシア軍のウクライナ侵攻を「フラトリサイド戦争」と批判、両国の和解を求めている(「フラトリサイド(兄弟戦争)の終結を」2022年3月4日参考)。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年3月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。