私はこうして奇跡的に生還した:ベトナム戦争体験談(金子 熊夫)

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外交評論家 エネルギー戦略研究会会長 金子 熊夫

ロシアの突然の侵攻で始まったウクライナ戦争は2カ月経過した現在も果てしなく続いており、泥沼化しそうな状況です。ロシア軍の攻撃から逃げ惑う市民や泣き叫ぶ子どもたちの姿をテレビで見るたびに、かつてベトナム戦争をじかに体験した者として、戦争というものがいかに残酷で非人道的なものかを改めて痛感しています。

さて、ベトナム戦争がサイゴン陥落(1975年)という劇的な形で終わって半世紀近く経ちますが、私は、この戦争の最盛期である60年代半ばに2年半サイゴン(現ホーチミン市)の日本大使館に政務書記官として勤務していました。特に68年冬の歴史的なテト攻勢の際は、たまたま出張先のフエで、猛烈な市街戦に巻き込まれ、約10日間死線をさまよいました。

この時の体験は、新聞や雑誌に詳しく記述してありますので、関心のある方は、ぜひ以下をご覧ください。特に朝日新聞の記事は、事件直後にサイゴンでの「手記」として書かれたもので、貴重な資料です。

◆「あるベトナム戦争体験者の証言(上、下)」読売クォータリー2015年夏号No.34、秋号No.35掲載

◆「ベトナム戦争体験者の証言(上、下)

◆「ユエに潜んで八日間 金子書記官の手記」1968年2月13日付け朝日新聞1面(「ユエ」はフランス語発音で、当時はそう呼ばれていた)

「ユエに潜んで八日間」(朝日新聞1968.2.13)

テト攻勢前夜のフエ旅情

周知のように、中国では旧正月を「春節」と言って、盛大に祝います。ベトナムも同じで、「テト」と称して約1週間、一族郎党がそれぞれの故郷に集まって、ごちそうを食べて大いに盛り上がります。兵士も同様に田舎へ帰るので、戦争は事実上「休戦」になります。日頃治安が悪く、サイゴンから出られない各国の外交官たちは、この時とばかり、地方視察と称して観光旅行に出かけます。

私は、前年のテトは隣のカンボジアへ行って、アンコールワットの遺跡をじっくり見物してきたので、この年はかねてからぜひ一度行ってみたいと考えていた中部ベトナムの古都フエへ行くことにしました。出発はテト前日の68年1月29日。

フエは、南北ベトナムの境界線(北緯17度)のすぐ南側、ちょうどハノイとサイゴンの中間。それだけに政治的にもサイゴン政府に批判的でハノイに同情的な人や反米的な人が多いとされていました。ゴ・ディンジェム時代にサイゴンで焼身自殺(「人間バーベキュー」)した有名な僧侶もフエ出身。フエの学生も当然反米的で、大学はベトコンの巣窟とも言われていました。

しかし、フエの町自体は、長らくグエン王朝の都があったところで、日本の奈良に似て、落ち着いた美しい町です。フォーン川(香河)がゆったり流れ、そのほとりに王宮(現在は世界遺産)や寺院が立ち並び、まるで水墨画の竜宮城のような風情があります。

初日の1月30日は好天に恵まれ、終日王宮などをのんびり見学し、夜は友人宅に招かれて旧正月料理を堪能しました。

夜遅く帰る途中、フォーン川沿いの夜店には大勢の人だかりで、しきりに爆竹の音がしました。岸辺の屋形船からは妙なる音楽も聞こえてきて、浦島太郎的な気分になり、ちょっと立ち寄って行こうかと思いましたが、翌朝は早くから郊外の寺院や廟などを見学する計画だったので、午前0時頃、宿舎に帰って就寝。宿舎といっても、市内の数少ない外国人観光客用のホテルはすべて満杯で予約できなかったので、親しかったフエ大学の教授(文学部長)の好意で、空いていた教官用アパートに宿泊させてもらっていました。

突然激戦が始まった

昼間の疲れでぐっすり眠っていた午前4時ころ、突然すぐそばで「パン、パン、パン」という乾いた音がして目が覚めました。最初は爆竹の音かなと思いましたが、次の瞬間突然大きな銃声が聞こえ、これはただ事ではないと、ベッドから跳ね起き、窓の外をのぞいてみると、すぐ目の前に銃を構えた男が2人、地面に伏せているのが見えました。薄暗い中で目を凝らしてみると多数の男たちがあちこちから発砲しています。みんな真っ黒のシャツとズボンを着て、ゴム草履(ホーチミン・サンダル)を履いているので、解放戦線(ベトコン)の兵士だとすぐわかりました。

しばらくすると、別の方向からもっと激しい銃声が聞こえてきます。後から分かったことですが、これはフエに駐屯している米軍が反撃していたのです。双方の撃ち合いはすさまじく、銃声や砲声がまるで滝の音のように絶え間なく響きます。米軍の火力が巨大なのは当然ですが、ベトコン側も予想以上に強力なのは驚きでした。

テト攻勢時のフエ
出典:Wikipedia

これも後になって分かったことですが、テトの数カ月前から、ベトコンは、武器・弾薬をこっそり大学の建物の床下に運びこんでいたようで、私の宿舎は彼らの前線司令部になっていたわけです。

私の寝室の隣りの部屋では、負傷兵が治療を受けていたり、別の若い兵士が小銃の手入れをしてたりしました。彼らの自動小銃は、ソ連式の「カラシニコフ銃」(AK47)ですが、銃床には漢数字の焼版が押してあるので中国製と分かります。それにしても、かなり大量の武器・弾薬を貯め込んだもので、貧弱な装備のゲリラ兵というそれまでのイメージを一変するほどでした。

ベトコンと米軍の狭間で

いつどこからどちらの弾丸が飛んでくるか分からないので、静かにベッドや食卓、本棚などを積み上げてバリケードを作り、その中に潜んでいましたが、もし機関銃でやられたらおしまいです。とくにフォーン川をさかのぼってきた米軍の艦砲射撃や戦車砲は強力で、コンクリート造りの大学の建物でも命中すると一発で吹き飛びます。砲声によって瞬時に方角を判断し、少しでも安全な場所に移動せねばならず、体力も神経も消耗します。

こうした状況から判断して、私のいた建物もいつやられるか分からず、このままでは私も死ぬかもしれぬと不安になりました。一方、心の中では、「こんなところで死ぬわけにはいかん。死んだら犬死だ。絶対に生き延びるぞ」と腹をくくりました。

しかし、夜になっても電気はつかず、マッチで明かりをつけることもできないので、真っ暗闇。銃声や砲声は止まず、緊張感は高まるのみ。室内で息を殺してじっとしていると再び不安感が募り、弱気になります。

元々フエは、サイゴンに比べ涼しい気候ですが、テトの期間中は小雨がしとしと降って、寒くて陰鬱。おまけに連日食べ物も無いので空腹と緊張感で悪寒がし始めます。そんな時、近くに住んでいたベトナム人たちが、大学の堅牢な建物の中に大勢避難してきて、テト用の保存食を分けてくれました。粗末なものでしたが、ぜいたくは言えないので、有難く頂戴して飢えをしのぎました。

空腹よりも何よりも一番困ったのは、情報の欠如です。テレビのない時代で、避難民が持ち込んだ安物の携帯ラジオだけが頼りでしたが、英語の短波放送が雑音でうまく聞こえず、外部の情報が全く入らないので、自分が今置かれている客観的な状況が把握できません。しかも、こっそりラジオを聴いていることがベトコン兵にばれると怪しまれるので、油断できません。日頃サイゴンの大使館で内外情報の洪水の中にいただけに、この情報遮断には弱りました。(こうした状況をいちいち詳しく書くとキリがないので、割愛し、先を急ぎます)

あいまいな中立は許されない

最初の1週間ほどは、共産側(北越軍とベトコン)が圧倒的に優勢で、私たちは彼らの支配下に置かれていましたが、その後徐々に米軍と南越軍が劣勢を挽回し、大学の構内近くまで米軍の海兵隊が迫ってきました。

どうやらベトコンの主力部隊は撤退し、フォーン川北岸の王宮内に立てこもったようです。そのことが分かった段階で、私はいつここから脱出して米軍に救出を求めるべきか、大いに迷いました。

フエ大学を奪還し、校舎内から攻撃する米兵
出典:Wikipedia

一つタイミングを間違えると、どこからベトコンの狙撃兵に撃たれるかもしれない。かといって、いつまでもベトコンの近辺にいると、米軍の攻撃の対象となる。まさにぎりぎりの状況での難しい判断でしたが、結局チャンスをみて米軍側に駆け込みました。

そのとき改めて痛感したのは、戦場においてあいまいな「中立」はあり得ないということです。自分は中立だと思っていても相手がそれを認めてくれるわけではない、自分の目で、冷静に状況判断し、最も確かな側を選んで果敢に行動する。それしか生き延びる方法はありません。

そういえば、テトのかなり前から、サイゴンで毎日聞いていたベトコンの地下放送では、日本政府のことを常に「軍国主義で親米的な佐藤(栄作)政権は…」と呼んではっきり敵意を示していました。その政権の外交官ということがばれれば、ただでは済みません。だから彼らに自分の身分を明かすことは最後までしませんでした。

正直に告白すれば、テト攻勢以前、私は日本政府の一員として当然米国の政策を支持する立場でしたが、内心では多くの日本人と同様に米国のベトナム政策に懐疑的、否定的で、米国留学中はこっそり反戦デモに参加しました(このことは本欄で再三記述した通り)。しかし、そう釈明したところで彼らが信用してくれたとは思えません。自分の考え方の甘さをその時はっきりと思い知らされました。

土のう作りで「後方支援」

こうして、約1週間の籠城生活の後、かろうじて米軍に無事救出され、フエ郊外の臨時の米軍基地にしばらく身を寄せました。まだ北越軍やベトコンが町を包囲している状況で、フエからダナンの米軍基地まで脱出するヘリコプターの空きがなかったからです。その間も共産側が米軍基地のすぐ近くまで攻撃を仕掛けてくる。特に危険なのは夜襲で、応戦する米兵たちも必死。撃たなければ撃たれる。だから「動くものはすべて撃つ」が鉄則。睡眠不足と極度の緊張で目を真っ赤にして銃にしがみついています。

突然、米兵の一人が、傍で「観戦」していた私に黙って小銃を差出し、撃ってみろと目で合図しました。米軍のM16ライフル銃は、ベトコンのカラシニコフ銃より大型で数倍重い。米軍基地で保護を受け、“一宿一飯の恩義”もあるので、ついその銃を手に取りかけましたが、思いとどまりました。戦争を放棄した国の外交官が銃で実際に攻撃したとなったら、ただでは済まないと思ったからです。もし従軍カメラマンに現場を撮られ、新聞に載ったら完全にアウトです。

そこで、とっさに思いついたのは、銃を取る代わりに、土のうを作るお手伝いをすることでした。ベトコン側の迫撃砲弾が絶えず基地内に降ってくるので、米兵たちは、鉄板を二重、三重に重ね、その上に土のうをたくさん積んで、その下で仮眠をとるので、土のうはいくらあっても足りない。そこで、私は昼間はシャベルで土を掘って土のう作りに精を出しました。これなら直接戦闘活動に参加したことにはならず、一種の「後方支援活動」だから日本国憲法第9条にも抵触しないだろうと判断しました。(この話は、今回初めて公にするもので、当時大使にも外務大臣にも報告した記憶はありません。)

フエでの10日間の極限的な体験は、その後の私の日本外交官としての基本姿勢に少なからぬ影響を与えたことは間違いありません。あれから半世紀。今の私が、ベトナム戦争をどう考えているか。現在進行形のウクライナ戦争とも対比して、後日じっくり考えてみたいと思います。

(2022年4月29日付東愛知新聞令和つれづれ草より転載)

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編集部より:この記事はエネルギー戦略研究会(EEE会議)の記事を転載させていただきました。オリジナル記事をご希望の方はエネルギー戦略研究会(EEE会議)代表:金子熊夫ウェブサイトをご覧ください。