環境問題とエネルギー安全保障:ストックホルム会議50周年に思う㊦(金子 熊夫)

外交評論家 エネルギー戦略研究会会長 金子 熊夫

最初に、先般の参院選戦中に奈良市で凶弾にたおれた安倍晋三元首相に対し、かつて一緒に仕事をした者の一人として、心から哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りします。

さて前回に続き、今年は世界史上最初の環境問題に関する国際会議(ストックホルム会議、1972年6月)から50周年の節目の年ですが、この会議に深く関わった私自身の体験の中で、特に印象に残っているのは、商業捕鯨禁止問題です。

(前回:日本はエネルギー危機に備えよ:ストックホルム会議50周年に思う㊤

捕鯨問題は環境問題か

捕鯨といっても、今の若い人たちにはピンとこないかもしれませんが、私たちの子供の頃、つまり終戦直後の食糧事情の悪かった頃、鯨肉は動物性たんぱく質として貴重品で、小学校の給食では定番でした。そのため捕鯨産業が盛んで、毎年日本の捕鯨船団は南氷洋(南極海)まで出かけてクジラを大量に捕獲していました。当時は欧米諸国も同様で、各国が競って捕鯨を促進したので「捕鯨オリンピック」というような状況でした。

南氷洋で泳ぐクジラ
出典:Wikipedia

その結果、シロナガスクジラなど大型鯨種は激減し、絶滅の危機が懸念されるようになり、何らかの規制が必要との意見が盛り上がりました。ロンドンに本拠がある国際捕鯨委員会(IWC)で対策の協議が進んでおり、日本も捕鯨賛成の立場で協議に参加していましたが、各国の意見の対立が激しく、結論は得られない状況が長年続いていました。

前回触れたように、元々日本では、「公害」という問題意識は高まっていたものの、「環境」という概念や認識は未発達で、鯨を含めた野生動植物の保護を環境問題と捉える習慣は全くありませんでした。捕鯨問題はあくまでも漁業問題であって、それはIWCで専門的に検討すべき事項だという考えです。だから、捕鯨問題がストックホルム会議で話題になるはずがないと高をくくっていました。

ところが、ストックホルムに到着してびっくり。市内のあちこちで、反捕鯨派の国際NGO(非政府団体)が、巨大な鯨の張りぼてと、これを銛で殺そうとしている日本人らしき捕鯨手を山車(だし)のように引き回しているのです。日本の商業捕鯨に対する露骨な抗議活動であることは一目瞭然。「かわいそうなクジラを環境保護のシンボル」に祭り上げて、反捕鯨運動を盛り上げ、日本を被告席に座らせようという彼らの作戦で、それにまんまと引っかかったことに気が付きました。

捕鯨外交の失敗と教訓

果せるかな、本番の会議では、米国代表から「すべての商業捕鯨の10年間停止(モラトリアム)」の決議案が提出され、各国の代表が次々に賛成しました。日本は、せめて特定の鯨種に限定すべきだとの考えから「科学的根拠に基づいて絶滅が危惧される一定の鯨種に限って」という修正提案を提出しましたが、支持は広がらず、結局「モラトリアム決議」が賛成53、反対0、棄権3(日本、南アフリカ、ブラジル)の大差で採択されてしまいました(その時の私の脳裏には、1932年に満州問題で孤立し、国際連盟を脱退した日本外交の悪夢が浮かびました)。この決議がまさにその後現在まで続く日本の捕鯨外交苦戦の発端となったのです。

繰り返しになりますが、当時日本では水俣病のような汚染・公害問題に人々の関心が集中しており、環境問題を日本式に狭く解釈し、ストックホルム会議はそうした「狭義の環境問題」を議論する会議だから野生動物保護とか捕鯨問題のような特殊な問題を扱うはずがないと勝手に思い込み、油断していたことが最大の敗因だった思います。

捕鯨船の甲板でクジラを処理(アイスランド)
出典:Wikipedia

逆の観点から言えば、捕鯨問題を伝統的な漁業専門機関で、しかも日本、ノルウェー、アイスランドなど捕鯨国が優勢なIWCではなく、新しい環境問題専門のストックホルム会議で取り上げ、それによって、クジラを「環境保護のシンボル」に仕立て上げ、日本などの捕鯨国を被告席に座らせ、一気に形勢を逆転しようという相手側の完全な作戦勝ちだったということでしょう。

ニクソン=キッシンジャーの陰謀

実は、後日非公式に得た情報によると、米国政府(当時大統領はニクソン、国務長官はキッシンジャー)は、ベトナム戦争の枯葉作戦などで傷ついたアメリカの国際的イメージを払拭するとともに、若者たちの反戦運動の矛先を転換させる手段として捕鯨問題を利用し、日本など捕鯨国を「悪者」に仕立て上げようと目論んだ作戦だったということです。いかにも稀代の策士、ニクソンとキッシンジャーが考えそうなことだという気がします。

しかし、これは単なる陰謀論ではないと思います。事実、このころ、ニクソン=キッシンジャーの主導で北ベトナムとの停戦交渉が秘かに進んでおり、ストックホルム会議の翌年(73年)、パリ和平協定が調印されました。こうしてベトナム戦争が下火になるにつれて、若者たちの関心も反戦運動から、新しい運動目標としての環境問題へ移っていったと見ることができます。

そうした時代の大きな流れに私たち日本人は鈍感だった、と言うべきかもしれません。これは、ベトナム戦争を自ら体験し、続いて環境問題にいち早く取り組んだ外交官としての自省の弁であると同時に、今後の日本の環境外交への教訓でもあると思います。

日本の捕鯨船の進路を妨害するグリーンピースのボート(2001年)
出典:Wikipedia

国連環境機関の創設に参画

さて、話を前に戻しますと、こうして2週間にわたって開かれたストックホルム会議では、あたかも「パンドラの箱」をひっくり返したように、国際社会が直面するさまざまな問題にスポットライトを当て、解決の糸口を見つけ出そうと試行錯誤を繰り返し、激論を展開しました。

当時は、環境問題はもっぱら先進工業国の関心事で、開発途上国にとっては環境保護より経済開発が優先事項という雰囲気でした。例えば、インドのインディラ・ガンジー首相は、総会での演説で「我々にとっては経済開発を進めて、国民の生活水準を引き上げることが急務であり、先進国のように煙突から煙を出すような工場をたくさん建設したいものだ。途上国の環境政策を言うなら先進国はまず財政支援を倍増すべきだ」と熱弁を振るったことが象徴的でした。

日本(首席代表は大石武一初代環境庁長官)は、そうした途上国支援のために「国連環境基金」の創設を提案し、率先して、目標額の10%を拠出すると約束し、注目されました。

さらに、世界的な環境保護政策を立案し実施するための新しい国連機関を創設すべきだという提案が日本やカナダなどから提案され、採択されました。日本は新国連環境機関(仮称WEO)を招致したいと名乗り出ましたが、結局、新機関はアフリカに設置すべきだということで、ケニアのナイロビに設置が決まりました(私は、大阪の万博跡地に招致したいと考え、色々画策しましたが、既存の国連専門機関が先進国に集中しているから、新機関はぜひ途上国にという意見に押し切られました)。

さて、こうして新しい国連機関として、「国連環境計画」(UNEP)が創設されることとなり、私は自作自演というか、「ミイラ取りがミイラになる」というような形で、自ら、日本政府派遣職員第1号として出向することになりました。

新機関の本部は当初スイス・ジュネーブの国連欧州事務局(パレ・デ・ナシオン)でスタートしたので、私は新婚の妻とともに赴任。1年半後ナイロビに移り、快適な自然環境の中で生活をエンジョイしたあと、さらにタイのバンコクに移動し、初代のアジア地域代表に就任。77年まで通算4年半の国連勤務を経験しました(これらの地での思い出はいずれ後日ゆっくりお話ししましょう)。

石油ショックで大打撃

ところで、私の国連勤務は最初のうちは順調でしたが、途中から状況が一変しました。ジュネーブで働き始めて半年後、73年10月に勃発した第4次中東戦争に伴い、「石油ショック」が起こったからです。このニュースを聞いたとき、直観的に「やばいことになった」と思いましたが、この予感は的中。とくに当時中東石油に8割以上依存していた日本は大打撃を受けました。

日本原子力文化財団HPより

時々公務で日本に来ると、電力不足で銀座のネオンサインはすっかり消え、自動車のガソリンも買えず、経済活動は停滞したまま。この時ほど「無資源国」の悲哀を味わったことはありません。ストックホルム会議で折角高まった「環境ブーム」は風船がしぼむように、あっという間に失速。

そこへ脱石油の切り札として登場したのは原子力です。日本の原子力発電は60年代初めから始まっていましたが、石油ショックを契機に一気に加速しました(ちなみに、東日本大震災で事故を起こした東京電力福島第1原発もこのころに運転開始)。当時私が新聞や雑誌に寄稿した論文のタイトルは「石油よ、さよなら。原子力よ、こんにちは!」

バンコクから東京に帰って外務省で最初に手掛けた仕事も原子力問題で、たまたま山場を迎えていた日米原子力交渉の渦中で、大いに苦労しました。

日本の環境外交の進むべき道

あれから45年。今また、突然のロシアのウクライナ侵攻に伴う対露制裁の結果、世界的なエネルギー危機が叫ばれています。今回の危機でも、資源小国である日本は先進国の中で最も深刻な影響を受けるおそれがあります。しかも、こうした厳しい状況下で、温暖化防止のため脱炭素(カーボンニュートラル)を進めていかねばなりません。対応を一つ間違えると、日本は大変なことになります。

捕鯨問題で経験したように、油断していると、欧米の策略に乗せられて「貧乏くじ」を引かされる可能性があります。気候変動対策でも、各国は少しでも自国の国益へのマイナスを減らそうと四苦八苦しており、環境外交は一段と厳しさを増しています。

日本は元来「資源小国」であることを自覚し、慎重に対処せねばなりません。かつて「かけがえのない地球」というキャッチフレーズを自ら創案し、地球環境保護の旗を振った私としては複雑な心境ですが、環境問題とエネルギー安全保障とどちらを優先すべきかと問われれば、当面は後者を優先すべきだろうと思います。そして、電力不足の深刻化が予想される今冬を乗り切るためには、原発の早期再稼働が不可欠だと考えます。

(2022年7月18日付東愛知新聞令和つれづれ草より転載)

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編集部より:この記事はエネルギー戦略研究会(EEE会議)の記事を転載させていただきました。オリジナル記事をご希望の方はエネルギー戦略研究会(EEE会議)代表:金子熊夫ウェブサイトをご覧ください。