アメリカはどこまで頼りになるか :日米関係の来し方行く末を考える②(金子 熊夫)

David Tran/iStock

外交評論家 エネルギー戦略研究会会長 金子 熊夫

今年はペリー艦隊の来航から170周年ということで、前回に続き、日米関係の過去をざっと振り返り、その上で、今後の日米関係の行方を展望してみたいと思います。

前回も書きましたように、私は安保闘争(1960年)の時大学4年で、翌年外務省に入りました。同級の友人たちが授業もそっちのけで、連日安保反対のデモに熱中している時に ”対米従属外交の総本山”とも言うべき外務省に入るのは正直いささか勇気が要ることでしたが、迷いはありませんでした。

(前回:ペリー艦隊来航170周年:日米関係の来し方行く末を考える①

なぜ対米追随外交なのか

実は、入省して間もなく、同期生と一緒に、時のアメリカ局長に挨拶する機会があり、私は「日本は独立国なのに、なぜいつまでも対米従属的な外交路線をとっているのか」とストレートに質問してみました。若気の至りでしたが、同局長は穏やかな、しかし断固たる口調で答えてくれました。

いわく、「対米従属などと考えるから妙に卑屈な気持になるのだろうが、むしろ、日本はアメリカの力をうまく利用して自らの安全保障を確保していると考えるべきだろう」と。立場上当然と言えば当然の回答でしたが、妙に説得力があり納得した記憶があります。

そういえば、この当時、外務大臣は椎名悦三郎という政治家でした。後に自民党副総裁を務めた大物で、外務大臣としては、日韓基本条約の締結(1965年)により日韓国交正常化という大仕事を成し遂げたことで有名ですが、当時、省内では稀に見る「名外相」として評判でした。大局的な方向を示した後は、細かいことにはいちいち口を出さず、部下に任せ、責任は自分で取るというタイプで、理想的な上司として信望がありました。

アメリカは日本の「番犬」だ

この名物大臣が、あるとき国会で、野党(社会党)の議員から日米安保条約体制についての見解を問われた際に、「アメリカは日本の番犬であります」と発言しました。野党議員から「大臣、そんなことを言っていいのか」と発言の訂正を促されると、椎名大臣は、「ただ今の答弁はやや不適当でした。『番犬』ではなく、『番犬様』でございます」と平然と答弁。

名外相と称された椎名悦三郎氏
Wikipediaより

こうしたおとぼけ、ユーモアは、本人の落語好きに由縁しているとの説がありましたが、この人を食ったような発言は、飄々とした人柄とともに、今でもはっきり記憶に残っています。

ちなみに、ほぼ同じ時期に、私の郷里の愛知県選出の某著名衆院議員(社会党左派)は国会で、政府の「対米追随外交」を批判して佐藤栄作首相を「売国奴」と呼んだため、懲罰処分を受けました。

なお、この椎名発言に対して米側がどう反応したか定かではありませんが、確かに当時の日米安保関係を日本の立場から率直に表現したものと言えます。番犬であるからには、飼い主は、日頃からエサを与え、散歩させるなどしっかり面倒をみなければなりません。在日米軍の駐留費の一部を日本が肩代わりする、いわゆる「思いやり予算」という考えも同じ発想と言えるでしょう。

ちなみに、この「思いやり予算」は、1978年に、当時の金丸信防衛庁長官が言ったもので、現在では「同盟強靱化予算」と改名され、年間2000億円超に達しています。

ベトナム戦争と日米同盟関係

さて、日米関係はこの日米安保条約を基盤にして営々と築き上げられ、現在では「日米同盟」と言われるほど強固なものになっていますが、その過程においては様々な紆余曲折や難局がありました。とくに難しかったのは、1960年代から70年代半ばまでのべトナム戦争時代です。

ちょうどこの時期、私は駆け出しの外交官として旧南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン市)の日本大使館で政務書記官として勤務していましたので、当時の記憶は今でも鮮明ですが、この戦争は第2次世界大戦後最も大変な戦争で、私自身も九死に一生を得るような危険な体験をしました(私のベトナム戦争体験談はアゴラにもいくつか掲載されていますので、是非参照してください)。

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日本国内でも猛烈な反戦運動が全国的に盛り上がりました。かつて安保闘争を戦った人たちがベトナム反戦で大同団結し、米国の「軍事介入」を激しく非難しました。このため難しい立場に立たされたのは、米国政府だけではなく、日本政府も極めて微妙な立場に立たされ、苦労しました。

佐藤首相(中央)のベトナム訪問。右はグエン・カオ・キ首相。左端は筆者。
サイゴンの大統領官邸1967年10月(筆者提供)

勿論、日本は、憲法9条で戦争放棄した国なので、韓国、フィリピンなどのように、ベトナム戦争に直接参戦(派兵)することはありませんでしたが、米国からは、同盟国としての協力を求められました。

例えば、米軍のための物資調達・補給活動の面では、横須賀、佐世保等の米軍基地からベトナムへの物資輸送に日本の民間船舶が大量に動員されたし、輸送船(LST)には日本人が大勢乗り組んでいました。

そうした日本人船員が、ベトナム領海でベトコンに狙撃され、死亡した場合には、私が日本政府の代表として遺体引き取りに立ち会ったことも何度かありました。

対米協力義務と憲法上の制約

それ以上に微妙だったのは、北爆に向かう米軍爆撃機が沖縄の嘉手納基地などから飛び立つ場合において、日本政府は何故「ノー」と言わないのか? と、国会で野党から詰問されても答えようがありません。米軍がいちいち爆撃機の行き先を日本政府に通報するわけがないし、独自に確認することもできないので、米国に文句を言う立場にはなく、その都度苦しい対応を迫られました。

テト攻勢の中、ベトナム・フエの米軍基地で土のう作りを手伝う筆者(筆者提供)

そもそも米国の立場からすれば、ベトナム戦争の目的は、北ベトナム、さらにその背後の中国、ソ連の侵略から南ベトナムの自由を守る、ひいては東南アジア全域の「ドミノ現象的な赤化」を防ぐという大義名分を掲げて戦っているわけだから、日本としても全く「我関せず」というわけにはいかない。基地の使用くらいは黙認する以外にない。おまけに、1972年の沖縄返還までは沖縄は米国の施政権下にありました。

このようなわけで、日本政府としては、憲法9条の平和原則と日米安保条約上の対米協力義務との間で、困難な判断を迫られたのです。

米国の「大義名分」なるものも、その後の歴史(特にトンキン湾事件)が示すように、かなり怪しいものでしたが、当時の国際情勢と日米関係からすれば、ベトナム戦争における日本の対米協力はギリギリで止むを得なかったと考えられます。

日本の国際貢献と「後方支援」

さて、その後日本が高度経済成長を遂げ、世界第2の経済大国となるにつれて、日米関係における日本の役割にも当然変化が生じてきます。とくに、ソ連崩壊により冷戦が終了してからは、世界各地で地域紛争が頻発しました。

例えば、イラクのサダム・フセイン政権が隣国クエートに侵攻した湾岸危機(1990年)とその後のイラク戦争(1991年)の際には、日本は、海部政権の下で、総額130億ドル(当時の為替レートで約1.6兆円)もの巨額の資金援助を行ったのに国際的にはあまり評価されず、日本はカネだけでなく、人的貢献も行うべきだと批判されました。

結局、すったもんだの議論の末、多国籍軍に対し自衛隊を派遣して「後方支援」活動(機雷除去、物資輸送、燃料補給など)に当たらせるという苦肉の策で、問題の解決を図りました。

このようにして、日本は憲法の許容範囲ギリギリのところで、何とか工夫して一定の国際的役割を果たしてきたわけで、これらの苦い経験を踏まえて、第2次安倍政権の時に安全保障法制の整備を行ったことは、まだ記憶に新しいところ。

しかし、これはいわば序の口で、日米同盟に基づく日本の安全保障と日米協力関係の在り方について問題が解決したわけではありません。

ウクライナ戦争における日本の役割

現在進行中のウクライナ戦争について言えば、地理的に遠く離れていることもあり、日本はあまり深く関与しておらず、これまで比較的無難に対処してきました。

ウクライナからの援助要請に対しては、今年3月、岸田首相は、ウクライナを訪問しゼレンスキー大統領と会談後の記者会見で、復興支援のほか、”殺傷能力のない装備品”の供与を表明しています。今後の状況如何によっては、更なる貢献を求められ、難しい判断を迫られる可能性もないとは言えません。

もっと大きな問題は、今後「台湾海峡有事」や「北朝鮮暴発」など、日本の身近な地域で重大な国際紛争が発生した場合にどうするかです。

ひと昔前までなら、米国が圧倒的な力を持っていましたが、近年の中国の急激な軍拡の結果、米国の力が相対的に弱くなってきているので、その分だけ日本の分担が大きくなるのは当然で、日本は応分の役割を果たす覚悟を持たねばなりません。それは米国のためというより日本自身のためと考えるべきです。

米国はどこまで頼りになるか

他方、米国の軍事力が相対的に低下するにつれ、いずれ米国はアジアから兵力を引き揚げるだろうとか、危機の場合でも日本を最後まで守ってくれなくなるのではないか。核抑止力(核の傘)についても、米国本土への核攻撃のリスクを避けるために、日本を核で防衛することはしないのではないか。つまり、米国はどこまで本気に日本を守ってくれるか、いずれ日本を見捨てる時が来るのではないかという懸念を指摘し、危機感を煽る人がいるのは確かです。要するに、米国はどこまで頼りになるかということです。

しかし、こうした懸念に駆られて、ならば日本はどうすべきか、対中関係を大きく転換すべきではないか、いや、独自の核抑止力を持って対抗すべきではないか等と右往左往する暇があったら、日本は米国が最後まで見捨てることがないほどの重みを持った国になるべく国力の増強に努めるべきだというのが私の結論的な意見です。

勿論、「如何なる同盟関係も永遠ではない。永遠なものは国益のみである」とのパーマーストン(19世紀の英国首相)の有名な警句があるように、日米同盟も永遠に存続するとは限りませんが、少なくとも戦後78年の実績を持つ日米同盟関係をより長期に、かつより強化するために、日本として最大限の努力をすることが、私たち日本人にとって最善の選択肢であり、そのことをペリー来航170周年の今、しっかり再確認することが何よりも重要であると確信します。

(2023年5月1日付東愛知新聞令和つれづれ草より転載)


編集部より:この記事はエネルギー戦略研究会(EEE会議)の記事を転載させていただきました。オリジナル記事をご希望の方はエネルギー戦略研究会(EEE会議)代表:金子熊夫ウェブサイトをご覧ください。