『日本書紀』によれば、日本建国の経緯は次のとおりとなっています。
神武天皇は、日向の美々津(みみつ)を出航して大和に到着。先住民の長髄彦(ながすねひこ)との最後の決戦で、邇藝速日命(にぎはやひのみこと)の助けを得て勝利することが最初のステップです。
その後、神武天皇は畝傍(うねび)山のふもと橿原(かしはら)に都を定め、即位の礼を執り行なって初代天皇になった、とされています。
しかし、戦前ならともかく、令和の現在なら、日本建国は一字一句このとおりだった、と信じている人はいないでしょう。
八本足のカラス「八咫烏」(やたがらす)が道案内し、「金鵄」(金色のとび)が神武天皇の弓に止まってまばゆい金色の光を発し、敵は目がくらんで降参…はもちろん、「日向の美々津を出航」も疑っている人も多いと思います。
そもそも、大和朝廷の始祖が、なぜ九州からはるばる大和まで遠征する必要があるのか…まったく意味が理解できません。もちろん、私もそうでした。
しかし、考古学的な知見や、前回説明したイネのDNAなどから考えると、この神武東征や日本建国の物語は基本的に正しいようです。
そんなバカな!という疑問は当然ですから、これから順を追って説明します。
神武東征の寄港地には大規模な前方後円墳があった
さて、大和朝廷スタート時のシンボルは何でしょう?
代表的なものとしては、巨大な行燈山古墳(伝崇神天皇陵)や、世界最大の陵墓である大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)が挙げられます。
これらの巨大古墳で目を引くのは、「前方後円墳」という極めて特徴的なその形です。方形□と円形○が合体しているように見えるため、こう名付けられました。
では、最初の前方後円墳はどこにあるのでしょうか。言うまでもなく、あの有名な大和の箸墓古墳で、だからこれ以後は「古墳時代」と呼ばれます。なにしろ、「古墳時代」の別名は「大和時代」とされるぐらいですし、ここまでは割とよく知られている話です。
それでは、箸墓古墳と同時期に作られた古墳(1~10期で分類した場合の1期)は分かりますか。こうなると、知らない人がほとんどだと思います。なぜか、古墳の解説書にもあまり書いてありません。
私がデータベースにより調べた結果を墳長順で並べ換えたところ、所在地は次の図4のとおりとなりました(近畿地方は箸墓古墳のみ表示)。
赤字の★に注目してみてください。1位の大和の箸墓古墳(奈良県桜井市)が墳長278mと最大なのは当然ですが、2位は日向(宮崎市)の生目古墳3号墳の143mで、ほぼ同じ大きさの1号墳も130mあります。よって、当時は東征出発地である日向が非常に重要視されていたことは明らかです。
それだけではなく、神武東征の寄港地だった宇沙、岡田宮、高島宮にもすべて50m以上の大規模な前方後円墳があります。これ以外の1期で50m以上の古墳は、4位の石塚山古墳と5位の久里双水古墳だけです。
なお、残りの安岐国・多祁理宮(広島市付近)ですが、やや規模は小さいものの、墳長35m(2期)の前方後円墳である宇那木山2号墳があります。
このように、神武東征の寄港地だったほぼすべての場所では、古墳時代の開始とほぼ同時に、大和朝廷の象徴である大規模古墳が建造されているのです。これだけ一致しているなら、どう考えても偶然とは言えないでしょう。
つまり、神武東征は、ある程度は事実を反映していると考えられます。たとえ、一字一句『日本書紀』に書いてあるとおりではないとしても……。正直、最初にこれを発見したときには非常に驚きました。
イネのDNAでも裏付けられた神武東征
神武東征は、前回説明したイネのDNAでも確認できるようです。
神武東征の出発地とされる日向のイネのDNA(RM1)は、日本では珍しい「c」というタイプ。『日本書紀』によれば、神武天皇の寄港地のうち、なぜか吉備の高島宮だけは3年間という長期間滞在し、食料を確保し軍備を整えたとされます。
ということは、農業の技術指導もしていたはず。そして、吉備のイネのDNAは、日向と同じ「c」(黄色の丸)なのです。
前述したように、この「c」というタイプは日本では珍しく、吉備の近くには見当たらないため、単なる偶然の一致とは思えません。このことは、神武東征では、日向の籾を吉備に運んで栽培した可能性を示しています。
そしてまた、当時の西日本の水田稲作で使われたのは「遠賀川式土器」です。神武東征の途中では、なぜか大和とは逆方向の西に進路を変更し、わざわざ筑紫・岡田宮に寄港しています。理由は、この遠賀川河口の積出港で土器を大量に調達して、「c」の籾とセットで吉備に持ち込んだということでしょう。
デジタル地図で見る神武東征
現在では、これまで考古学の多くのデータがデジタル化され、ビジュアル的に分かりやすく表示することが可能になりました。
弥生時代の近畿地方を象徴する青銅器に「銅鐸」があります。この分布は、デジタル地図で見ると極めて分かりやすいです(図6)。
対して、弥生時代の北部九州を代表する青銅器は「銅剣」「銅戈」「銅矛」です(図7)。
『日本書紀』には多くの「剣」に関する記述があり、「草薙の剣」は三種の神器にもなっています。言い換えれば、北部九州の「銅剣」の伝統は、大和朝廷に受け継がれていることになるわけです。
しかし、かつて近畿地方で大いに使われていたはずの「銅鐸」については、『日本書紀』にはなぜか一切記述はありませんし、現在でも何のために使われていたのかも不明とされます。もちろん、大和朝廷の伝統にもありません。
これらのことは、弥生時代の末、北部九州の勢力が近畿まで遠征し、地元勢を打ち破って大和朝廷を樹立したことを象徴的に示しています。
神武東征が事実であることを暗示するエピソード
このほかにも、神武東征に事実が含まれていることを暗示する『日本書紀』のエピソードは数多くあります。代表的な例を3つほど紹介します。
【エピソード1】
長浜浩明氏によれば、「浪速の渡を経て…」「まさに難波碕に就こうとするとき、早い潮流があって大変早く着いた」などは、紀元前後ならそういう地形が存在したとのこと。図8にあるように、当時は大阪平野の大部分は水面下にあり、その入口には細長い砂州があったようです。安本美典氏なども同様のことを指摘しています。
【エピソード2】
邪馬台国が北部九州の筑後地方にあったとするなら、当時の日向は、邪馬台国最大級の植民市だったと思われます(後述予定)。神武東征が日向から出発した理由の一つは、新たな植民市の大和でも、スタッフやノウハウがそのまま活用できるからでしょう。
【エピソード3】
神武天皇が大和に念願のミニ国家を打ち立てた後、近畿地方だけでは人が足りないため、邪馬台国のある北部九州から多くの人材を呼び寄せたようです。定着を促進するため、新しい土地には、愛着のある出身地や故郷の地名を付けた(図10)。これは戦国時代でも見られた風習で、主な論者は安本美典氏などです。
このように、『日本書紀』に書かれた神武東征と日本建国神話は、一字一句そのとおりだったとは言えないにしても、相当な部分は事実を反映していると考えてもよいのではないでしょうか。
現状では、歴史学による日本神話の分析は十分とは言えません。これは、聖書を科学的に分析する「聖書学」が既に学問として確立している欧米に比べると、極めて残念なことだと思います。
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金澤 正由樹(かなざわ まさゆき)
1960年代関東地方生まれ。山本七平氏の熱心な読者。社会人になってから、井沢元彦氏の著作に出会い、日本史に興味を持つ。以後、国内と海外の情報を収集し、ゲノム解析や天文学などの知識を生かして、独自の視点で古代史を研究。コンピューターサイエンス専攻。数学教員免許、英検1級、TOEIC900点のホルダー。
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