古代史サイエンス④:デジタル地図で邪馬台国の位置が分かるのか? --- 金澤 正由樹

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2年前の記事では、魏志倭人伝と資料から邪馬台国の位置を推測し、北部九州である可能性が高いと位置付けました。

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古代史サイエンス:魏志倭人伝で邪馬台国の場所は分かるのか?(前編) --- 金澤 正由樹
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魏志倭人伝で邪馬台国の場所は分かるのか?(後編)

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九州説と畿内説

改めて論点を整理すると、邪馬台国の位置は、

  1. 北部九州にあった邪馬台国が東遷して大和朝廷になったという九州説
  2. 邪馬台国は最初から大和にあり、その後に大和朝廷に移行したという畿内説(近畿説)

の2つに大別されます。

なお、不弥国までのルートは、大方の研究者の見解が一致しています。

図1 九州説と畿内説での邪馬台国の位置

 

専門家とされる歴史学者や考古学者の多くは、邪馬台国は最初から大和にあり、その後に大和朝廷に移行したという畿内説が妥当だと考えています。現在、邪馬台国の証拠として本命視されているのは、大和にある纒向遺跡や箸墓古墳です。

この説の最大の問題点として指摘されているのは、事実上唯一の文献資料である魏志倭人伝との整合性です。九州説でも畿内説でも、不弥国までの位置は大方の研究者が一致。字句どおりなら、その後は「南」に行くと邪馬台国だとありますが、畿内説では東となります(図1、図2)。

図2 魏志倭人伝の記述

それだけではないのです。距離についても、不弥国から邪馬台国までは1300里となるはずですが、実測値と合うのは1里=数十m(短里)ですから、1300里なら100km未満となり、どうやっても大和にまで行きつきません。

なお、2020年になると、奈良県立橿原考古学研究所を定年退職し、学生時代を含め約40年、大和の遺跡や古墳の発掘と検討に携わり、纏向遺跡、藤ノ木古墳、太安萬侶墓などの調査に従事した、プロ中のプロである関川尚功氏が『考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国』を出版し、「邪馬台国の存在を大和地域に認めることは出来ない」として、畿内説に疑問を呈し、関係者ではかなり話題になりました。

対照的に、歴史学や考古学以外の研究者、例えば著名な安本美典氏は九州説ですし、私のようなアマチュア研究家の多くも九州説が多いという特徴があります。もっとも、九州説の場合は論者が多いせいか、所在地については諸説あり、朝倉(甘木)、山門、宇佐などに分散し、必ずしも見解が一致しているわけではありません。

九州説のネックは、畿内説とは違う意味での不弥国までの距離です。図2にあるとおり、不弥国から邪馬台国までは1300里で、実測値である1里=数十m(短里)で換算すると100km未満。よって、邪馬台国は九州のどこかとなります。

しかし、この1300里(数十km)に対応するのは、「陸行30日」(20日+10日)と「水行1月」で、いくら古代でも時間がかかりすぎです(図2)。

この問題については、孫栄健氏が著書『決定版 邪馬台国の全解決』で有力な仮説を提唱していて、当時の戦勝の記録では「本来の数字を10倍にする」という慣習があったとのことです。

孫氏が言う「春秋の筆法」のとおりだとすると、魏志倭人伝の「里」が短里で、通常使われた長里の1/10であること、邪馬台国の人口が弥生時代の日本の全人口より多くなってしまうこととも呼応します。そして、陸行30日→陸行3日に、水行1月→水行3日に読み替えればいいので、ほぼ文献どおりの解釈でよいことになるのです。

デジタル地図による検証

いままで述べたように、魏志倭人伝を素直に解釈する限り、九州説が畿内説より有利なことが分かります。ただし、九州説では、畿内説の纏向や箸墓のような巨大遺跡がなく、考古学的な裏付けがやや不足しています。問題解決のヒントとなりそうなのが、かぬそぬ氏によるデジタル地図です(図3:拙著には未収録)。

図3 かぬそぬ氏が作成した弥生時代と古墳時代の銅鏡の分布図

当時の銅鏡は富と権力の象徴。図3を見れば一目瞭然で、圧倒的に北部九州と近畿地方に集中しているのです。つまり、邪馬台国は北部九州か近畿地方である可能性が極めて高いことになります。

しかし、このデジタル地図には古墳時代と弥生時代のデータが混在しています。邪馬台国が存在していたのは弥生時代ですが、残念なことに弥生時代のみの地図がありません。

そこで、この地図にある銅鏡の元データ『日本列島出土鏡集成』を入手し、弥生時代限定の地図を作成してみました。デジタル地図は国土地理院のGSI Mapを使用しています。北部九州と近畿地方の分布は図4と図5にあるとおりです。

見ればわかるとおり、北部九州が近畿地方を圧倒し、実数では2桁近い差を付けています。弥生時代の銅鏡の分布から判断する限り、邪馬台国は北部九州と考えるしかないようです。

図4 弥生時代に北部九州で銅鏡が出土した遺跡

図5 弥生時代に近畿地方で銅鏡が出土した遺跡

実は、前出のかぬそぬ氏の地図からは、少し意外なことも読み取れます。図6は、九州地方の拡大図です。

図6 九州地方の拡大図

邪馬台国は、海上ルート確保のため、港湾機能を極めて重視していたことは、図6(拙著には未収録)を見れば説明不要でしょう。朝鮮半島に近い、玄界灘に面する福岡市(奴国)付近に集中していることは予想どおりです(A)。

よく見ると、このほかにも銅鏡が集中している場所があるようです。それは、瀬戸内海に面する行橋市付近です(B)。これは、どう考えても大和との海上ルート用の港湾でしょう。注意深く見てみると、このルートは陸路で九州山地を越えて朝倉市付近(C)に伸びています。

正直、私には意外な発見でした。

以上の説明を陸路で整理したのが次の図7です。

図7 銅鏡の分布から推測される主要な物流ルート(陸路)

また、海路も考慮してモデル化したのが次の図8となります。

図8 銅鏡の分布から推測される主要な物流ルート(海路含む)
(国土地理院 1:500,000デジタル標高地形図 九州【技術資料D1‐No.1053】)

弥生時代の鏡が多く出土した地域は丸で、数字はその地域で出土した数を示しています。筑紫平野の大部分(紺色)は当時は海であり、多くの集落や水田は沿岸部に立地していたと思われます。

よって、最も可能性が高いのは、邪馬台国(赤円)は山門(みやま市)が発祥地で、夜須(朝倉市)が首都機能を担っていたということです。北西は強力な奴国が押さえていたため、北東部の港(A、B、C)により九州や本州への海上ネットワークを確保したということでしょう。

なお、魏志倭人伝で投馬国や邪馬台国への行程に「水行」が入るのは、筑紫平野の大部分が海だとするなら妥当な記述となります(図2)。

「すべての道はローマへ通ず」ではないですが、北部九州のすべての道は邪馬台国へ通ず…なのでしょう。

これで、魏志倭人伝の記述、銅鏡による考古学的知見、当時の地形がほぼ一致しました。

私は、邪馬台国は山門が発祥地で、夜須が首都機能を担っていた、と信じています。

なお、九州説の安本美典氏などは、邪馬台国の巨大遺跡として、朝倉市にある平塚川添遺跡の可能性を指摘しています。この遺跡は、日本最大級の吉野ケ里遺跡と同程度かそれ以上の規模とも言われており、発掘が進めば謎の解明が大きく進むはずです。

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金澤 正由樹(かなざわ まさゆき)
1960年代関東地方生まれ。山本七平氏の熱心な読者。社会人になってから、井沢元彦氏の著作に出会い、日本史に興味を持つ。以後、国内と海外の情報を収集し、ゲノム解析や天文学などの知識を生かして、独自の視点で古代史を研究。コンピューターサイエンス専攻。数学教員免許、英検1級、TOEIC900点のホルダー。

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