浜崎洋介さんとの文藝春秋PLUSは、おかげで多くの方がご視聴くださったようだ。とはいえ、ウクライナを応援することを「ウクライナに耳あたりのよいことを言うこと」と取り違えてきた人には、なかなか受け入れがたい内容らしい。
こうした反応が典型で、そもそも ”you are not winning” と言い出したのは私ではなく、トランプの発言の引用だ。さらに、理詰めでゼレンスキーを叱責したヴァンスと比べて、身もふたもない現実ばかり振りかざすトランプの子供っぽさを強調したから、浜崎氏が笑ったのである(7:50頃~)。
「プーチンの一方的な言い分」を垂れ流しているのも、もちろん私や浜崎氏ではない。ロシア側の言い分は無視するというコンセンサスを、今回トランプとヴァンスが崩壊させたことを、事実として指摘しただけだ。それが不当だと思うなら、罵るべき相手は米国であって、われわれではない。

しかしこうした反応は、大事なことを教えてくれる。発言者氏の主張が示すのは、自分にとって不快な「ロシアの言い分は目に触れさせるな」、それが正しい報道であり、論壇であり、国際政治学のリアリズムだと錯覚しているという事態だ。そうした人は、有名無名を問わず、かなり多い。
自分と同じ意見しか目にしたくないと思い、異論の持ち主をブロックし続けた結果、本気で「世界にはひとつの立場しかない」と思い込む環境に陥る現象をエコーチェンバー(こだまの響く部屋)という。ふだんならそれを肯定する人はおらず、克服すべきネットの弊害だと見なされる。

ところがそれは「平時」の話で、令和に入ってはっきりしたのは、「戦時」となると日本人はむしろ、その人にとっての正しい主張しか目に入らない「よいエコーチェンバー」を熱望するという事実だった。コロナで言えば、
マスクが無意味なんて話は、聞きたくないッ! 自粛がムダなはずなんてない! 外食する自由なんてどうでもいい、時代遅れなオールドノーマルは要らない! ワクチンという究極兵器がコロナ禍を終わらせるんだ、副作用なんてあるわけないッ!
うおおお専門家の西浦博先生を支持、尾身茂先生を応援ッ! 先生方を批判するやつらをメディアに出すな、うおおお、うおおお、うおおおお!!
みたいな話だ。で、これを「支援がムダなはずなんて…」「異論を唱える自由なんて…」「平和主義はオールドノーマル…」「F16戦闘機の大量供与が…」云々に置き換え、センモンカの箇所も適切な人名に替えれば、そのままウクライナ戦争に当てはまるわけである。

私たちの社会がそうした状態にあることは、いつ比喩ではない戦時が訪れるかもしれない現在、非常に危険だ。国民が丸ごとエコーチェンバーに溺れるリスクを、日本という国は常に、潜在的に抱えていると見た方がよい。
3/20発売の『Wedge』4月号の特集は、「民主主義がSNSに呑まれる日」。私の寄稿から、上記の問題をえぐる箇所を引こう(東海道新幹線のグリーン車で無料配布中のほか、むろん書店で買えます)。

人間には、自分を脅かす他者の存在を不安に感じ、「同じ者どうし」だけで軋轢なく過ごしたいと願う欲求もある。
心理学や精神分析では、そうした欲望を「母性原理」に喩える。かつて母親と一体だった胎児のように、自他を区別せず、ひとつに溶けあった状態こそが気持ちいいとする発想のことだ。……
「母なる文化の国日本の兵士は強かった。しかし、それは母性原理に基づく男性の強さであり、彼らは死に急ぐことにその強さを発揮したのである」。
一蓮托生で異論は許されず、仲間とともに正しい側にいるという昂揚感さえあれば、結果が総員玉砕でもかまわない。こうした発想は確かに〝強い〟が、危機管理には向かない。
しかし当人の主観としては、まさに危機にあり不安だからこそ、そんな紐帯を求めてしまう。
34頁
強調を附し、段落を改変
真ん中の「 」は、心理学者の河合隼雄が1976年に出した『母性社会日本の病理』から引いている。河合は手塚治虫らと同じ28年の生まれで、敗戦の年に17歳。もとは高度成長後に社会問題となった、不登校児の家庭を論じるための議論が、令和のいまではネット社会の全体に当てはまる。

今回の『Wedge』への寄稿では、よく聞く経済安全保障の概念に倣って「言論安全保障」の必要性を提起した。母性社会と呼ばれる日本では、危機の時ほど容易に言論が一色に染まり、それが正しいという保証はない。
だからこそ、社会の画一化に違和感を覚える人・異論を唱える人・対立する主張の持ち主にも発言する権利を認め、公平な議論ができる人を、自覚的に育てていかねばならない。あるべき模範と見なさねばならない。
逆に令和のSNSに繁殖した、相手をブロックしたことを誇り、気に入らなければフォロワーを煽って叩かせ、自分の意見だけが広まるべきだと公言し、文章で反論もせず「開示請求! 法的措置!」と連呼する人は今後、雑草を抜くように扱われねばならない。有事に備えて安全保障の敵を無力化しておく、政治的なリアリズムってやつである。

1年前、すでに戦場でのウクライナの劣勢は明らかだったにもかかわらず、「でも日本のTwitterではウクライナ応援団が勝ったもんね☆」なる企画をぶち上げた雑誌があった。現実の戦況からは目を背け、論壇を挙げて「母胎に回帰し引きこもりましょう」と謳うに等しい、幼年期の発想である。
海外の報道(たとえばBBC)によれば、2024年にロシアが獲得した=ウクライナが失った国土は、前年比の6倍以上にあたるという。1年前に停戦に舵を切っていれば、守れたはずの領土であり、人命だ。そうした「現実の死者に目を向けずヘラヘラしてる」ことこそ、許されない。

5月に文藝春秋から刊行するのは歴史の本だから、もちろんコロナやウクライナを、直接に扱っているわけじゃない。しかし、こうした母性社会日本にとってかつての戦争や、戦後とはなんだったのかを、それを「母性」と形容することの妥当性も含めて、問い直す1冊になっている。
「失われた「昭和」の教訓」と銘打った『Wedge』4月号への寄稿でも、いま同書を刊行する意義に触れた。令和のこの国が幼年期を脱し、今度こそ成熟するために、手に取って楽しみにしてくれる人がいれば嬉しい。

参考記事:



(ヘッダーは、有名なSF小説の古いカバーより)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年3月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。