昨年8月に開始されたウクライナのロシア領クルスク州侵攻は、軍事部隊の衝突としては終了した。ロシアは、ウクライナ側に8万人近くの死者を出したと主張している。欧米諸国が提供した兵器類の多数が鹵獲されていることは、映像資料で確かめられている。もちろん詳細は不明だが、異国の地で相当な犠牲を払って、何も得るものもなく、撤退したことは事実である。
ウクライナ国内のみならず、ウクライナの友好国においても、この作戦について語ることはタブーとなっている。政府の責任を問わざるを得ないからだ。ウクライナ政府自身は、制圧した集落などがなくなった後も、繰り返し攻撃を仕掛けようとしているようだ。
軍事的に意味のある目標は存在していない。クルスク作戦はまだ続いている、と言い続けることを目的にして、クルスク作戦を続けているような状態である。ロシアはウクライナ領に侵入して、「安全地帯」と称した緩衝地帯の設置を始めている。
東部戦線でも昨年よりもロシア軍の進撃スピードは遅くなったと言われるが、基本的にはロシアが占領地を広げ続けている。このため、アメリカのトランプ政権が働きかけている停戦調停も、簡単には結果が出せない。時間がたてば支配地を広げられることをロシアが知っているためだ。
紛争分析の「成熟」理論の観点からすれば、2023年春のウクライナ軍の反転攻勢で、ロシア・ウクライナ戦争の峠は越えた。ウクライナ側から見れば、本来であれば2023年のうちに停戦をしておくことが、損失を小さくするためには、合理的であった。膠着状態を作り出していたからである。現在は、膠着状態ではない。現状での停戦は、膠着状態での停戦よりも、難しい。

ウクライナが執拗にロシア領攻撃にこだわっていたのは、膠着状態を作り出して停戦に持ち込む選択肢を排除していたからだ。「ウクライナは勝たなければならない」の大合唱の中で、冒険的な行動を繰り返し、戦況を悪化させている。
現在は、5月9日にモスクワで開催される「大祖国戦争」戦勝パレードの際に何らかの攻撃があるかどうかが、大きな話題となっている。式典に参列する各国首脳がロシア入りする日程になってきたところで、ウクライナ軍は繰り返しモスクワを狙ったドローン攻撃を仕掛けている。またロシア軍高官を狙ったロシア国内の市街地での爆殺事件なども、ウクライナの犯行であることをにおわせる発言を、ゼレンスキー大統領自身が行っている。

ゼレンスキー大統領Xより
ゼレンスキー大統領が、「ロシアが自作自演の偽旗作戦の攻撃を行うので、各国首脳はロシアに行かない方がいい」と発言したことが、物議を醸しだしている。スロバキアのフィツォ首相は、ゼレンスキー大統領に対して名指しで「他国を脅迫すべきでない」と述べた。
執拗なモスクワ攻撃の試みから得られる軍事的な効果は乏しい、と言わざるを得ない。クルスク侵攻をめぐる攻防では、明らかに資源の乏しいウクライナの側に失ったものが大きかった。それでも執拗にウクライナがロシア領への攻撃、あるいは何らかの形での攻撃、にこだわるのは、「ウクライナは勝たなければならない」の呪文に未だに束縛されているからだろう。
トランプ大統領の停戦努力により、最近ではゼレンスキー大統領も停戦拒絶の姿勢を表に出すことは控え、停戦を拒絶しているのはロシアだ、という主張を繰り返す姿勢をとるようになっている。
しかしバチカンで15分間自分と話してトランプ大統領は変わったかもしれない、といったことも口にしたりしていて、焦点が定まらない状態になっている。
ゼレンスキー大統領は以前に、ロシア領を攻撃して、プーチン大統領が全能ではないことを見せつければ、ロシア人のプーチン大統領への幻想が消滅し、厭戦気分が高まり、あるいは反プーチン運動すら盛り上がるかもしれない、といった想像を語ったことがある。
残念ながら、今のところ、この想像が実現しそうな兆候が、全くない。しかしこの想像が実現するのでなければ、「ウクライナは勝たなければならない」の呪文を成就させることができないのだ。
ゼレンスキー大統領の言動を分析する者たちのみならず、アメリカ政府なども、5月9日にモスクワを攻撃しないように働きかけている。しかし、ウクライナ政府は、「ロシアが自作自演の偽旗作戦の攻撃を行う」という予告に終始している。
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