老人無料健診を廃止して老人医療費削減適正化の突破口とせよ

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老人医療費の膨張と制度の限界

団塊の世代が後期高齢者となり、超高齢化がいよいよ本番である。老人医療費はうなぎ登り、国の税収約60兆円に対し国民医療費は40兆円を超えた。

医療費はインフラや教育のような国と国民に資産形成させ得るものではなく、単に消費するだけで単体では持続可能性がない。中でも無料老人健診はその意義が無く無駄なだけでなく、医療機関の外来業務をときに圧迫し、医療ひっ迫の一因にすらなり得る。無料老人健診を廃止し、盲目的延命医療全般の保険給付廃止、そして止めども無く膨張する老人医療費の削減適正化の端緒とすべきだ。

蛇足であるが本稿では敢えて高齢者ではなく老人という言葉を使う。そもそも我が国の衰退の根源たる老人医療費、年金そして介護問題は、「老人医療費無料化」「老人保健法」に端を発するからだ。

現場から見た予防医療の理想と実態

筆者は看護師として臨床経験28年余を超え、大学病院から民間救急病院、クリニック外来そして在宅医療訪問看護まで我が国医療のほとんどの場を経験してきた。

この10年ほどはそもそも要介護化や認知症になってからでは遅い、予防こそ超高齢化社会の医療の要諦と考え、地域の内科外来クリニックでプライマリケアつまり第一次医療に携わっている。いわゆるかかりつけ医(療機関)として高血圧や糖尿病などの基礎疾患や風邪などの不調の治療、健診やワクチン接種などの予防医療が主なミッションである。そして地域のクリニック外来が、無料老人健診の担い手である。

自治体による無料老人健診の法的根拠は、高齢者の医療の確保に関する法律、旧老人保健法による。戦後しばらくまで、多くの庶民はよほどのこと死にそうな時でもなければ医者にかかれなかったという。それが戦後健康保険法、老人保健法により国民皆保険を実現さらに老人医療無料化と、戦後復興と高度成長を糧に我が国の医療は世界最高の質と量と廉価を実現した。その結果が平均寿命延伸による超高齢化である。ではそれは本当にめでたいことになっているのか。

超高齢化と平均寿命延伸の一方で、健康寿命との差の拡大が問題視されている。平均寿命男性約81歳女性86歳に対し健康寿命は約72歳と75歳、つまり10年前後要介護になる。これは言い換えると長寿化が要介護化を招き増長したことになる。高齢者医療費の膨張が言われて久しいが、要介護者ということは何らかの疾患により障害があることを意味するから、当然である。

無料健診がもたらす外来混乱と医療ひっ迫

では、老人健診の現場、多くはクリニック外来では何が起きているか。

自治体にもよるが、春から秋頃まで住民健診シーズンである。自治体から国民健康保険加入者に健診チケットが届き、好きな医療機関(健診協力医療機関)に行く。そこで検査する。問題はここからだ。

無料の老人健診では、一通りの検査を行う必要があり、高齢者は理解や動作に時間がかかることも多いため、予約制にしている医療機関が多い。しかし、中には予約制ではないところもある。

筆者の経験では、予約制ではない小さなクリニックに、午前中だけで5人の健診希望者が来たことがあり、そのうち二組は夫婦で仲良く来院していた。こうなると、健診だけで診療時間が埋まってしまい、通常の診察が後回しになってしまう。

いつもの薬をもらうだけの患者や、具合の悪い新患が長時間待たされる事態も発生した。たとえ「不要」とは言えなくとも「不急」である健診のために、具合の悪い患者が待たされるのは本末転倒である。

しかし、着順で呼ばなければ「なぜ自分の順番が後なのか」といったクレーム、いわゆるカスハラにつながることもある。小さなクリニックでは、看護師が1人だけということも多く、複数の患者を並行して対応するのは困難なのが現実である。

多くの高齢者は高血圧など何らかの持病を抱えており、すでに定期的に通院して検査を受けている。健診はあくまでスクリーニング目的であり、実施されるのは最低限の検査にすぎない。たとえば横浜市では、いつの間にか75歳以下の健診からは貧血などの基本項目が外されてしまった。

本人としては、健診のついでにいつもの薬も処方してもらえれば、1回分が無料になり「何かしてもらった」という気分になって嬉しいのかもしれない。しかし、老人健診では定期診療以上のことは行われない。いわば“糠喜び”にすぎない。

にもかかわらず、現役世代が拠出する保険料によって、年に何度も検査を受けている高齢者に、さらに健診を実施し、それが定期受診以下の内容であるにもかかわらず、公費――すなわち現役世代の血税――を浪費しているのが現状だ。

そもそも定期的に通院している時点で、あるいは要介護であるならば、健康とは言いがたく、「健康診断」を行う意味自体がナンセンスである。

一方で、持病がない、あるいは持病があっても放置し、定期的な受診をしていない高齢者も少なくない。筆者が健診センターで現役世代向けの出張職域健診に携わっていた際の体感では、要医療にもかかわらず受診していない人が、およそ5%程度存在していた。

このような人々は、放置すればある日突然、脳卒中や心筋梗塞などで倒れるリスクがある。健診の本来の意義は、こうした無症状で病気の自覚がない人を早期に拾い上げ、必要な治療につなげることで、重篤な障害や要介護状態を予防することにある。

健診費用の“見えない巨額”

なお、無料の老人健診は「治療」ではないため、医療保険ではなく自費扱いとなり、それを公費で補助しているかたちとなる。このため、健診費用は国民医療費には反映されない。

筆者は健診にかかる予算額を把握しようと政府統計を調べたが、健診費用は「高齢者保健事業費等」に紛れており、明確な金額は把握しにくい。だが、いくつかの資料から推計は可能である。

たとえば会計検査院の報告書によれば、令和2年度の国民健康保険における特定健診の国庫負担金は125億円余であった。国庫補助率が1/3であるため、総額は約645億円と見られる。

さらに、厚生労働省の2024年の資料では、後期高齢者医療制度における健診事業に対し、国庫補助金は約41億円。対象となる高齢者は1686万人で、そのうち健診を受診したのは474万人(受診率28.1%)にとどまる。

これらの健診事業は医師会などに委託されており、委託費は1人あたり1万円〜1万5000円程度とされる。仮に平均1万5000円で換算すれば、後期高齢者分だけでも健診費用の総額は約714億円にのぼる。

こうした予算を合算すれば、国と自治体による健診関連支出は総額でおよそ1兆円規模に達する可能性がある。これは、統計上は医療費に含まれない“隠れた老人医療費”といえる。

命を守る検診が命を奪うこともある

とはいえ、一部のがん検診には有益な側面もある。たとえば、大腸がん、乳がん、前立腺がんなどは、早期に発見して治療すれば、自立した生活を続けられる可能性が高い。しかし、手遅れになればその結末は深刻で、命にかかわるだけでなく、悲惨な死を招くことも少なくない。

ただし、90歳を超える超高齢者や、要介護・認知症の患者に対するがん検診については、慎重な判断が求められる。手術や治療が身体的・精神的に大きな負担となり、入院によって廃用症候群が進行して要介護状態になったり、認知症が悪化したりするリスクもある。その結果、その人らしい自立した生活を損なうことにもなりかねない。

筆者の経験でも、ようやく訪問看護を開始し、施設入所を回避できるかと思っていた矢先、たまたま介護者が検査を受けたことで末期がんが見つかり、入院。結果的に本人も介護施設へ入所することになったケースがあった。

その介護者には何の自覚症状もなく、もし検査を受けなければ、しばらくは二人で自宅で穏やかに暮らせていたかもしれない――そう思わずにはいられない出来事だった。

健康保険制度の見直しと持続可能な未来へ

経済発展と医療の進歩で長寿化した日本だが、医療財政だけでなく医師や看護師不足も始まりつつある。医療リソースが有限であることを為政者も国民も意識しなければ、折角築き上げた国民皆保険医療を自滅させることになる。

米国では既に、エビデンスから費用対効果が確実な医療行為を選択し、無益な医療を止めるchoosing wiselyという活動がある。わが国も参考にすべきだ。

老人医療費だけでなく子供の医療費の無償化や生活保護の医療扶助も、聖域とせず見直すべきだ。つい先ごろ、ゼロ価格効果つまり医療が無料だと無駄遣い不適切利用が起きると明らかになった。いわゆるコンビニ受診である。生活保護受給者の医療費は全国201万人で1.4兆円にものぼる。そのほとんどは回復せず(しようともせず)社会復帰しない。

わが国日本は超高齢化からの多死と加速する少子化で、経済と国家収入は確実に縮小する。介護職だけでなく医療者までも減少し不足する。先年筆者が「始まる介護崩壊。世代間扶助型社会保障の破綻から目を背けるな」で述べたように、世代間扶助仕送り方式の社会保障は少子化で破綻する。医療さらに介護も持続可能にシェイプするしか無い。

一方で、特にまだ働ける、家族を養い支えるべき現役世代の最低限の健康スクリーニングと、明確な症状があるときこそ精密検査を経済的に支援すべきだ。高額療養費問題と併せて、限りある予算、保険料と医療リソースの有効活用、効果的分配が必要だ。

我が国の健康保険制度がまず取り組むべきは、老人健診を完全に廃止することではなく、「定期的に受診している人」および「要介護者(すでに定期的な診療を受けている)」を健診の対象から除外することである。そうすることで、高額療養費の問題も無理なく解決でき、約1兆円にのぼる無駄な支出を有効な財源として転用すべきである。