
(前回:墨俣一夜城はなかった(前編))
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第8回「墨俣一夜城」(2026年3月1日放送)で、前回放送に引き続き墨俣一夜城の築城が描かれた。本稿では前回記事の続編として、藤本正行氏の研究に依拠して、墨俣一夜城伝説の問題点を指摘する。
アカデミズムへの編入:明治期における「史実」の最終確定
『絵本太閤記』が広めた墨俣一夜城伝説は、『甫庵太閤記』から約200年後の嘉永2年(1849年)より幕末にかけて、御家人で国学者でもあった栗原信充(1794~1871年)によって編纂・刊行された『真書太閤記』に再録されたことで、さらに有名になった。そして史実として、明治のアカデミズム史学に引き継がれたのである。したがって明治中期までは、豊臣秀吉の墨俣築城は永禄5年ということになっていた。
ところが、東京帝国大学史料編纂掛の編纂官であった渡辺世祐は、明治40年(1907年)に著した『安土桃山時代史』において、「今、太閤記・秀吉譜に考へ、墨股築砦を永禄九年九月となし、在来の諸説を排せり」と、従来の「永禄5年(1562年)説」を排し、「永禄9年9月」説を提唱した。これにより、秀吉の墨俣築城が、織田信長による稲葉山城攻略(美濃平定)の決定的要因として位置づけられることになった。
ここに見える「秀吉譜」とは、は江戸幕府お抱えの儒学者である林羅山と四男の守勝(読耕斎)が、幕府の命令で編纂した漢文体の歴史書『将軍家譜』の一部として寛永19年(1642年)に作成した『豊臣秀吉譜』のことである。けれども、『豊臣秀吉譜』の墨俣築城に関する記事は、『甫庵太閤記』の記事を漢文訳したにすぎないので、渡辺の根拠は『甫庵太閤記』のみということになる。
学界の権威が一次史料への遡及を怠り、物語による創作を史実として認定したことは、史学史上の重大な瑕疵と言わざるをえない。
さらに言えば、前回紹介した通り、『甫庵太閤記』には秀吉が墨俣に築城したという記事はないから、渡辺説は『甫庵太閤記』にすら忠実でなく、史料の恣意的な利用である。だが日露戦争終結直後という国民意識の高揚期において、この爽快な成功譚は時代の要請に合致し、学界の定説として公認されるに至ったのである。
『武功夜話』の文章表現:情緒的かつ近代的
戦後も墨俣一夜城伝説は広く信じられた。そしてこれを補強するように現れたのが、昭和50年代に突如として世に現れた、『武功夜話』をはじめとする文書群(前野文書)である。
『前野文書』は、愛知県江南市の旧家・吉田龍雲家に伝わったとされる古文書群である。同史料によれば、吉田龍雲家は、豊臣秀吉の古参家臣である前野長康の甥である小坂雄善の末裔であるという。
『武功夜話』は前野一族による聞書(インタビュー、回顧録)の集成であり、前野長康の動向を中心に、秀吉の若き日の活躍や織田信長の逸話などが記されている。特に、織田信長と秀吉の出会いや、有名な「墨俣一夜城」のエピソード、前野長康や蜂須賀小六ら尾張・美濃国境地帯の「川並衆」と呼ばれる野武士たちの活動などが描かれており、大きな話題を呼んだ。
さて『武功夜話』は墨俣築城のための打ち合わせの書状類や設計図面を多く含んでおり、同書が真書であれば、墨俣一夜城は歴史的事実ということになる。しかしながら、学術的な分析に照らせば、同書が明治以降に捏造された偽書であることは明白である。
戦国期の武家文書、特に当事者間の書状は、共通の状況・知識を前提とするため極めて簡潔であり、現代人には難解であるのが通則である。対して『武功夜話』をはじめとする『前野文書』に収められた書状群は、現代人が一読して内容を把握できるほどに〝親切すぎる〟記述が目立つ。
この読みやすさが『武功夜話』ブームにつながったのだが、古文書を学んだことのない一般の現代人がスラスラ読める時点で疑うべきなのだ。
『前野文書』に引用されている、蜂須賀正勝が前野長康に宛てたという書状には、「御忍びにて」「ヒソヒソ語にて」「夜陰に乗じ」といった臨場感あふれる表現が散見される。これらは実務的な情報伝達を旨とする戦国期の書状には一切見られない、物語的な情景描写である。読者である現代人に状況を分かりやすく伝えようとする小説的技法と見るべきだろう。
『武功夜話』の本文(地の文)である聞書部分に関しても、「嘆じて申されけるは」や「切々に申し上げ」など、登場人物の態度や心情を示す情緒的・演出的な表現が多い。文章のリズムが全体に講談調で、門外不出を謳う家伝としては不自然である。
また、戦後の合併によって成立した合成地名「富加」(富田+加治田)や「鉄炮(鉄砲)隊」といった近代的な呼称(戦国時代当時は「鉄炮衆」と呼ばれた)の混入は、弁解の余地のない捏造の証拠である。
近代的な『武功夜話』の図面
『前野文書』に含まれる墨俣城関係の図面を精査すると、そこには近現代の製図概念に依拠した表現技法が明確に現れている。たとえば『前野文書』「永禄墨俣記」所収の「馬柵図」(墨俣城の馬防柵の図)では、柵木の地中に埋もれている部分が、なんと点線で描かれている(図1)。

図1 『前野文書』「永禄墨俣記」巻三に所収。
『江南市史 資料 4 文化編』(1983年)より引用
また『武功夜話』所収の「永禄洲俣記」にも、同様の馬防柵の図が掲載されているが、「土中」の部分に平行な斜線を細かく引いている。地中であることを強調するための近代的な描画表現であり、戦国・江戸期の絵図には見られない。
墨俣城から出動して敵方(斎藤方)の町を焼いた図面も『前野文書』には収録されているが、軍隊の移動経路を→→→と連続した矢印で表記している点は致命的だ。動線を矢印で図解するという抽象化・記号化の概念は、近代以降のものである。
軍事的非合理性の極致:墨俣城縄張り図の構造的欠陥
江戸期の地誌に基づけば、墨俣の地は本来、南以外の三方を長良川・犀川に囲まれた半島状の台地である。ゆえに、川を天然の防御線とし、陸続きの南側だけを堀切で遮断するのが戦国時代の築城の常識である。
しかし、『前野文書』所収の墨俣城の縄張り図は川を利用せず、四方を人工の土塁と堀で囲んだ平地の単一長方形として描かれている(図2)。この図面は、墨俣の地形的利点を把握していない者の無知をさらしている。

図2 『前野文書』「永禄墨俣記」巻三に所収。
『江南市史 資料 4 文化編』(1983年)より引用
敵地に砦(橋頭堡)を築くには工期の短縮が最優先されるが、この図面通りにゼロから巨大な方形の城を築くのは、川を利用する場合に比べて圧倒的に工事量が増え、非効率である。明らかに「一夜城」の図面として不適格だろう。
加えて、敵を攻撃・監視するための櫓(矢倉)が、防御線の内側に建てられている。戦国時代の常識では堀際の土塁の上に建てて高さを稼ぎ視界を広げるべきだが、絵図の位置では自城の塀が邪魔になり、敵を有効に攻撃できない。
しかも、墨俣城大手(正面)の虎口が、単調な防御線(長さ120間もある南側の直線)のほぼ中央にポツンと開けられている。東西の両端にある高櫓からは虎口の前面は遠すぎて有効な射撃ができず、しかも虎口の前面に堀や土塁、柵などの防御設備を設けるといった最低限の防御工夫も見られない。
最大の欠陥は、東西120間(約216m)、南北60間(約108m)という巨大な城でありながら、内部を区切る防御線がなく、広大な一つの曲輪(単郭)になっている点である。
本丸(城主が居住する城の中枢)に相当する「内曲輪」が存在しないため、長くて単調な外周の防衛線をどこか1カ所でも突破されれば、もはや城内で粘り強い抵抗をすることはできず、即座に城が陥落してしまう。図面の作者が、戦国時代の築城技法を少しも理解していないことは明白である。
以上のように、『前野文書』の墨俣城の絵図面は、戦国期の築城術に関する知識を全く持たない後世の人物によって、想像で適当に描かれたものであるということが、構造上の致命的な欠陥から証明できるのである。
偽書『武功夜話』が露呈する暦学的な致命傷:失われた「閏8月」
言うまでもなく、戦国時代には太陽暦ではなく太陰暦が用いられていた。墨俣一夜城が築かれたとされる永禄9年(1566年)は閏年であり、8月の次に「閏8月」が存在した。しかし『武功夜話』や関連史料には、この閏8月の動向が完全に欠落している。
同書の記述通り、永禄9年8月22日に秀吉が蜂須賀正勝に墨俣築城のための資材の準備を依頼し、9月12日に墨俣への上陸を開始したとすれば、資材準備を依頼してから資材の結集までおよそ50日もかかったことになる。隠密性と迅速性を至上命題とする築城作戦を発動するにしては、驚くべき悠長さである。これは、当時の暦を知らない近現代人が、秀吉の墨俣築城のスケジュールを頭の中で創作した動かぬ証拠である。
『武功夜話』の作者は、分かりやすく小説的な文章表現と近代的な製図表現で、江戸中期以降に広まった「一夜城伝説」のイメージを肉付けすることで、歴史の空白を埋めようと試みた。しかし、その過剰な読者サービスと戦国合戦への無理解こそが、史料としての虚偽性を自白することになった。
今なお『武功夜話』を「信憑性が低いとされる史料」と留保をつけつつも、戦国時代の史料として引用する歴史研究者・作家は跡を絶たないが、厳に慎むべきであろう。







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