生きたイカの泳ぎは干したスルメからは学び得ない

ゼノンの詭弁では、アキレスは、少し先に歩いている亀を抜けない。アキレスが亀の位置まで到達するには、一定の時間を要し、その時間経過中に、亀は何がしか前進し、次にアキレスが再び亀に追いつこうとすると、また一定の時間が経過して、更に亀は前進する。故に、どこまでいってもアキレスは亀を抜けない。

この問題について、ベルクソンの解は明快である。本来は分割できない時間の持続を空間に投影して、任意分割が可能であるかのようにみなしたところに、根底の誤謬があるというのである。アキレスの運動が分割不能な時間の持続であるのにもかかわらず、それを空間に投影して恣意的に分割したが故に、逆説が生じているのである。

ベルクソンは、人は、薔薇を見るとき、薔薇にまつわる全ての記憶を瞬時に甦らせる、故に、誰も同じ薔薇を見ないといった。より正確には、同じ薔薇を見る人々は、その瞬間において、各自の過去の全てを包含した内的時間を生きているということである。各自の内的時間の長さや密度は、それぞれの人生の厚みを反映して異なる。実際、これは、時を忘れて見惚れたり、退屈で時をもて余したりする日常経験に一致しているわけである。

gyro/iStock

事業における成功は、成功者自身の内的時間においては、豊かな生き生きとした内容をもつ必然的展開である。しかし、他人は、成功者の語る言葉や行動の履歴など、客観的時間に空間化されたものによってしか、その成功を研究できない。

つまり、活きたイカの持続的運動である泳ぎは、泳いでいるイカにしか体験できず、他人にできることといえば、イカをスルメに乾して、成分と組織構造を分析することだけなのである。スルメを研究してイカを理解したと思い、泳げるつもりで海に飛び込むものは、溺死するであろう。

これは、成功者を亀とし、ゼノンの逆説におけるアキレスに自らをなしてしまうことと同じである。それでは、亀を抜けない。他人の成功を意識しないで走れば、即ち自由奔放に走れば成功者になり得た人も、亀を見たばかりに、亀縛り、いや金縛りのように硬直し、敗北するのである。

語り得ない未来において、敢えて語るなら、成功は偶然だというほかない。では、過去を語ることはできるのか。ベルクソンの内的時間の持続は、分節不能なものとして、瞬時に全体が想起されるものとして、語り得ないものである。語るためには、時間を空間に投射して分節するしかない。活きたイカについては語れず、語るためにはスルメに乾すしかない。そして、その語り得る過去において、成功は必然なのであろう。

そもそも、過去を語るのは何のためか。それは未来を語るためであろう。故に、過去の成功事例は未来の必然として語られるのである。こうして巷に経営学の本や実務書が氾濫するに至るのだが、それらにはスルメとしての意味しかない。美学が重要な学問だとしても、美学から美は創造されないのである。

同じ薔薇について、薔薇が想起せしめる各自の記憶の深さ、厚さ、豊かさ、多様さを反映して、見る人ごとに異なる薔薇を見る。薔薇から美を創造できるものは、想起の深さ、厚さ、豊かさ、多様さにおいて、他を圧倒しているのである。

森本 紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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