頼総統の戒厳令解除39周年談話に滲む「台湾独立」

台湾の頼清徳総統は戒厳令解除39年周年に当たる7月15日、「民主主義を守り、権威主義の侵害を阻止する」との決意を語った。与党民進党中央常務委員会での発言だが、こうして内外に報道され、中国共産党の私兵・人民解放軍の脅威に晒されている台湾の現状を、改めて西側諸国の人々の胸に刻ませた。

戒厳令の布告当時を振り返れば、それ待望していた蒋介石は45年8月15日の日本降伏直後、かねて準備を指示していた陳儀を行政長官として台湾に送り込み、官民の日本残置資産を根こそぎ接収した。今の価値で約3兆円ともされる資産の詳細は、拙稿「台湾総督府編『台湾統治始末報告書』を読む」を参照願う。

二・二八事件(「事件」)の主たる原因もここにある。陳儀らは「専ら物的接収に重きを置き、懸案事項、緊急要務等重要なる行政事務の引継ぎには殆ど関心を示さ」ないばかりか、総督府が備蓄していた米と砂糖それぞれ20万トンを瞬く間に大陸に売り捌き、対価の大半を行政部門幹部の懐に収めたのである。

極度の食料不足・品不足と猛烈なインフレが台湾を襲った。働き口も、中央・地方の官庁や民間企業の要職はすべて北京語しか理解しない外省人に独占され、本省人は下級職に甘んじる外なかった。こうした社会背景の下、47年2月28日に台北で起きたごく些細な出来事が「事件」へと発展したのである。

ここでは詳細には立ち入らないが、「事件」は台湾全土に広がり、本省人数万人が虐殺に遭ったとされる。しかも2年ほど経った49年5月19日、国民党政府が戒厳令を布告したことにより、87年7月15日に蔣経国総統によって解除されるまで、「事件」は38年余りの間、歴史の闇の中に隠蔽され続けた。

戒厳令の解除で「事件」を体験した者らが重い口を開き始めたことが、少なからず台湾人が「事件」を知る契機になった。更に経国の死で副総統から昇任した本島人の李登輝総統が98年、大陸中心だった歴史教科書の記述を台湾中心に変えた『認識台湾』に改め、そこに「事件」を記述したことも大きい。

それが証拠に、人口2300万人と平均寿命80歳を基に計算すると、既に台湾人の過半が『認識台湾』で歴史教育を受けたことになり、結果、92年から毎年実施している政治大学の調査に拠れば、当初20%以下だった「台湾アイデンティティ」の比率が、00年からは連続して60%を上回っているのである。

2000年といえば、台湾独立を綱領に掲げて86年9月(戒厳令解除の10カ月前)に結党した民進党・陳水扁が、台湾史上初めて国民党から政権を奪取した年である。それから26年、08年から8年間の馬英九国民党政権期を除いて、民進党は蔡英文・頼清徳と連続して台湾の政権を担っている。

さて、頼氏はこうも述べている。因みに「白色テロ」とは、「事件」以降「戒厳令解除」まで続いた、国民党特務機関による共産党狩りに名を借りた本省人の反政府分子弾圧のことを指す。

世界一長いとされているこの戒厳令の歳月の中で、国民党による権威主義体制は、国民の集会、結社、言論、出版などの基本的自由を制限するとともに、長期にわたって社会を監視し、異論を抑圧した。その結果、台湾の歴史において痛ましい「白色テロ」と呼ばれる時代が形成された。

総統になってからはいくぶんか抑えているものの、頼氏は元来、極め付きの強固な台湾独立派として知られる。その頼氏が台湾独立という時、それは大陸の共産主義国家からの独立だけを意味しない。それはすなわち「事件」を引き起こし、「白色テロ」を行った国民党からの独立でもある。

頼氏はそのことを、戒厳令下の長く苦しかった歳月と、自由を謳歌している解除後の歳月とがちょうど等しくなったこのタイミングに「民主主義を守り、権威主義の侵害を阻止する」と述べることで、改めて台湾国民2300万人の胸に、深くそして強く刻ませるべく、この談話を公表したのではなかろうか。

小林政調会長らのパプアニューギニア訪問を断念させた野党の外交音痴にも呆れるほかない。

最後に、台湾に絡む最近の拙稿「中国の首を真綿で絞める『ドンロー主義』」(7月7日)と「矢板明夫氏襲撃の裏に中国の『民族団結進歩促進法』」(7月11日)に深く関連する出来事が16日に出来したので、それに触れて本稿の結びとしたい。

頼総統が戒厳令解除39周年の談話を公表した翌16日、何の前触れもなくパプアニューギニア外相が、同国にある中華民国代表処(大使館に相当)を「直ちに閉鎖し、業務を停止する」と声明したのである。

7日の拙稿に書いた、目下台湾と国交を樹立している12ヵ国にパプアニューギニアは含まれていない。が、参考文献に用いた『台湾の国交樹立外交の軌跡』を読むと、同国は99年7月5日に国交を樹立し、同月21日に断交するという、実に奇妙な動きをしていた。

そこでネットで調べると、27年前の99年5月29日(※ママ:7月半ばではないか)に松下政経塾に在籍中の矢板明夫氏が「台湾とパプアニューギニアとの国交樹立について」と題する論考を書いていたのだ。要旨はこうである。

豪州紙が7月3日、パプアニューギニアのスケート総理の秘密訪台をスクープした。そして5日、台北で両国外相の(※国交樹立)文書調印が発表された。直ちに中国政府がパプアニューギニア政府に「厳正な交渉と強烈な抗議」をした結果、7日にスケート総理が辞任した。

月日の記述はここまでで、21日の断交には触れていない。が、中国によるパプアニューギニアとその宗主国豪州に対する、政治・経済・安全保障などあらゆる分野にわたる断交工作の様子が書かれている。今般のパプアニューギニア外相による声明も、中国による同様の工作の結果であろう。

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