
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第29回「天下への道」(2026年7月26日本放送)では、羽柴秀吉が明智光秀を撃破した山崎の戦いが描かれた。今年3月に中京大学教授で日本中世史研究者の馬部隆弘氏が、新発見の史料に基づき、秀吉が山崎合戦の際、戦場に間に合っていなかったことを指摘し、学界の内外で注目を集めている。
本稿では、この馬部氏の新説を紹介すると共に、若干の私見を述べる。
1. 山崎合戦の歴史的意義と従来の「通説」
まず通説を確認しておこう。天正10年(1582年)6月13日に行われた山崎合戦は、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀と、亡き主君信長の仇討ちを掲げる羽柴秀吉が激突した戦いである。信長の死からわずか11日後に光秀を討った秀吉は、織田家中での求心力を急速に高める。その後の豊臣政権誕生へとつながった、日本史上極めて重要な「天下分け目の戦い」とされている。
通説においては、秀吉は備中高松城から驚異的なスピードで軍を反転させる「中国大返し」を成功させ、光秀との決戦の前に山崎へ到着していたとされてきた。そして、天王山中腹の宝積寺に本陣を構え、織田方の主力として自軍を率い、天王山争奪戦に代表される優れた戦術指揮によって明智軍を打ち破ったと認識されている。
この「信長の弔い合戦」を最前線で主導し、劇的な勝利を収めたという軍事的な大功績こそが、その後の清須会議を経て秀吉が覇権を確立する上で最大の正統性になったと評価されてきたのである。
2. 馬部隆弘氏の新説:秀吉は最前線に「不在」であった
しかし近年、馬部隆弘氏の研究により、秀吉が合戦の最前線にはおらず、実のところ「遅参」していたという事実が明らかにされた。その決定的な証拠となるのが、合戦当日である天正10年6月13日付で、秀吉が姫路城の留守居である小寺職隆・生駒七郎右衛門宛てに送った新出書状(中京大学文学部所蔵)である。
この書状には、「明日ハ西岡へ打出可着陣(明日は勝龍寺城方面である西岡へ出陣して着陣する予定である)」と明記されている。すなわち、山崎合戦が起きている当日の時点で、戦場には到着していなかったことが一次史料から裏付けられたのである。
他史料から、秀吉は12日には摂津富田(現在の大阪府高槻市富田町)に到着していることが判明するので、13日においても、秀吉は戦場の山崎から3里(12km)後方の摂津富田に滞留していたと思われる。
3. なぜ秀吉は遅参してしまったのか
秀吉が合戦に間に合わなかった理由には、大きく二つの要因が存在する。
第一に、秀吉自身の戦況予測の誤りである。秀吉は前述の書状の中で、12日に織田方の先発隊(後述する摂津勢と思われる)が山崎に布陣し、勝龍寺城付近まで進出して放火などの攻撃を行っていることを伝え、「(明智討伐に)手間はかからないので安心するように」と記している。
すなわち秀吉は、防戦一方の明智軍は勝龍寺城に立てこもるだろうと戦況を楽観視していた。このため秀吉は、翌14日に西岡に進軍して勝龍寺城を包囲することを予定していた。まさか光秀が13日のうちに山崎へ野戦を仕掛けてくるとは夢にも思っておらず、完全に戦機を読み違えていたのである。
第二に、物理的な疲労の限界である。イエズス会宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』によれば、前線で戦端が開かれたことを知った織田信孝と秀吉の軍勢は山崎へと急行し、戦場から1里(4km)足らずの場所まで迫ったが、疲労困憊していたため到着できなかったという。
常識外れのスピードで行われた「中国大返し」による過酷な強行軍が、皮肉にも秀吉本隊の足を富田で止める結果を招いていたのである。
4. 真の立役者:高山右近による大山崎占拠と明智勢先鋒の撃破
秀吉本隊が到着しない中、山崎の隘路(ボトルネック)で明智軍の猛攻を受け止め、実際に戦局を決定づけたのは、最前線に展開していた高山右近ら「摂津先発隊」であった。
戦場となった山崎は、北を天王山、南を淀川に挟まれた幅わずか約1.5kmの極端に狭隘な地勢であり、大軍の展開を阻む天然の要害であった。天王山の南麓に展開する大山崎の町も、土塁や関門で囲まれ要塞化された武装自治都市であり、軍勢の通行をしばしば阻んだ。
兵力に劣る明智方としては、この隘路を押さえて大軍の織田方を迎え撃つ作戦が最善であった。しかし光秀は、大山崎に隣接する摂津高槻城を治める高山右近を明智方の軍事行動によって刺激し、完全に敵に回すことを恐れ、大山崎の軍事占領を躊躇していた。摂津勢が味方になってくれることに、光秀は一縷の望みをかけていたのである。
その隙を突き、6月12日午後に摂津勢を中心とする先発隊が雪崩れ込んだ。中川清秀は天王山の山沿いを押さえ、池田恒興は淀川沿いを進んだ。そして高山右近は西黒門から大山崎の町に突入したのである。
これに驚いた光秀は、大山崎奪還のために兵を繰り出した。高山右近は後方の秀吉に援軍を要請したが、救援が間に合わないと判断するや、明智軍の前衛に対し、1000名余の兵と共に門(大山崎の東黒門か)を開いて突撃を敢行したという(フロイス『日本史』)。
この奇襲によって、高山右近の部隊は身分の高い明智兵200余りを討ち取った一方、わずか1名の犠牲を出しただけだったという。フロイスの『日本史』はキリシタン大名である高山右近を顕彰する意図を有しており、数字には誇張の疑いが強いが、高山右近が明智軍前衛を撃退したことは事実であろう。
この高山右近による大山崎の先制占拠と明智勢先鋒の撃破によって、明智軍は大山崎の町の強行突破を断念せざるを得なくなり、絶対的防衛線であるボトルネックの喪失が確定した。フロイス『日本史』によれば、その後、池田恒興と中川清秀が戦場に到着すると、明智方は戦意を喪失して退却していったという。
つまりフロイス『日本史』に従えば、秀吉本隊が到着するよりも前に、合戦の決着はついていたことになる。通説では、フロイス『日本史』の記事は高山右近を顕彰する意図が露骨であるため、信憑性を疑問視されてきたが、馬部氏は前掲の新出秀吉書状と記述が整合することから、フロイス『日本史』を再評価し、山崎合戦を明智方と摂津勢(池田恒興・高山右近・中川清秀)の戦いとして捉え直している。
5. いかにして「秀吉が山崎にいた」という物語は流布されたか
合戦の真の功労者が池田恒興・高山右近ら摂津の諸将であったにもかかわらず、彼らの活躍が埋もれてしまった背景には、秀吉の強烈な政治的意図が存在したと馬部氏は説く。
秀吉が織田政権内部における最大の実力者としての地位を確立し、柴田勝家ら他の重臣たちを政治的に抑え込むためには、「自身が全軍を指揮して主君・信長の仇討ちを完遂した」という絶対的な大義名分と実績を独占する必要があった。そのため、摂津先発隊が秀吉の到着を待たずに独自の判断で戦端を開き、勝利の決定打を放ってしまったという事実は、秀吉の権力掌握のシナリオにおいて極めて不都合な真実であったのである。
「主君の弔い合戦に遅参した」という自らの致命的な失態を隠蔽するため、秀吉は戦後、猛烈な宣伝工作(プロパガンダ)を展開した。秀吉は山崎合戦後の6月26日付の書状では、「山崎へ駆け上がり、明智軍を切り崩した」と、あたかも自身が直接参戦して戦果を挙げたかのように偽装し、自己正当化を図ったのである。
これと並行して、秀吉は御伽衆(貴人の話し相手)の大村由己に『惟任退治記』を書かせ、自身が「華麗なる弔い合戦」を遂げたことを強調する物語を捏造した。この世論誘導により、「中国大返し」の驚異的な行軍スピードのみが過剰に誇張され、「光秀との合戦に間に合わなかった」事実からは人々の目が完全に逸らされた。
その後、中川清秀が賤ケ岳合戦で戦死、池田恒興が小牧・長久手合戦で戦死、高山右近がバテレン追放令によって失脚するという形で、山崎合戦の真の功労者たちが表舞台から姿を消すと、「秀吉が山崎に着陣して采配を振った」という歴史の書き換えが大々的に行われるようになった。
そして太田牛一の『大かうさまくんきのうち』、さらには『甫庵太閤記』などに見られるように、秀吉が流布した〝神話〟が後世における〝正史〟として定着していったのである。
6. 馬部説への疑問:「秀吉軍」は到着していた
秀吉が山崎合戦に「遅参」した事実を明らかにした馬部氏の功績は大きい。しかしながら、山崎合戦に「秀吉軍」が参加していなかったという主張はどうだろうか。
山崎合戦から4ヶ月後の10月18日、秀吉は織田信孝の家臣に宛てて書状を送って(信孝に読んでもらうことが目的であるが、主筋の信孝に直接書状を送るのは失礼にあたるため、家臣に宛てるのである)、自身の忠義と功績を喧伝している。その中で秀吉は山崎合戦を振り返り、当時の布陣を以下のように語っている。
道筋(西国街道)者、高山右近(重友)、中川瀬兵衛(中川清秀)、久太郎(堀秀政)切崩候。南之手(淀川沿い)ハ池紀(池田恒興)者、我等者ニハ加藤作内(光泰)、木村隼人(重茲)、中村孫平次(一氏)切崩候。山之手(天王山)ハ、小一郎(羽柴秀長)、黒田官兵衛(孝高)、神子田半左衛門(正治)、前野将右衛門(長康)、木下勘解由(吉隆)…(後略)
上に従えば、加藤光泰・木村重茲・中村一氏・羽柴秀長・黒田孝高・神子田正治・前野長康・木下吉隆ら秀吉麾下の武将が山崎に着陣している。秀吉本人は「遅参」したかもしれないが、弟の羽柴秀長ら秀吉の部隊は戦場に到着していたと考えられる。
馬部氏は、10月18日秀吉書状から「秀吉の遅参を伏せる意図」を読み取り、同書状の記述の信憑性を疑っている。確かに秀吉による一定の情報操作は認められるが、布陣に関しては疑う必要はないだろう。
前述の通り、織田信孝は摂津勢の4km後方まで進軍していた。光秀討伐戦の当事者である信孝に対して、全く嘘偽りの布陣を語ってもすぐ看破されてしまう。
「秀吉の軍勢が山崎に到着していた」ことは事実であり、だからこそ秀吉は信孝に当時の布陣を語って、自軍の貢献を喧伝したのであろう。
フロイス『日本史』が語る摂津勢の活躍は、山崎合戦の前哨戦におけるものであると考えられる。フロイス『日本史』は秀吉の軍勢の行動を全く記していないが、これは前哨戦に続く本戦の描写を意図的に省いたということだろう。むろん高山右近の軍功を強調するためである。
あたかも高山右近をはじめとする摂津勢だけで明智方に勝利したかのように、フロイスは記述を操作したのである。通説通り、山崎合戦本戦には、秀吉の軍勢が参加していたとみなすのが妥当ではないか。

山崎の戦い布陣図
出典:本能寺の変考察ブログより







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