
かつてなく、イスラエルが嫌われている。
みんなすぐ忘れるから、思い出そう。2023年10月にガザ紛争が火を噴いたとき、西側諸国で “キャンセル” されたのはパレスチナに共感した側だった。欧米ではそう振るまうだけで、「反ユダヤ主義」の烙印を押されるからだ。

ところがそこから3年経たずに、クビになるのは「イスラエルを応援する側」に変わったらしい。いい加減な人たちだなとも思うが、それほどいまや、世界でイスラエルは嫌われる国になった。

このとき大事なのは、なぜイスラエルが「いまのような国になったか」を理解することだ。
最初はハマスが「汚らしいテロ集団」に見えたから忌避したのに、ネタニヤフがもっと汚く見えたら態度を翻すだけでは、大きな小学生のやる “エンガチョごっこ” である。まぁどの分野も、そんな識者だらけだけど(苦笑)。

ネタニヤフが属する「右派政党の本家」がリクードだが、政権の獲得は1977年と非常に遅い。親米国家の印象が強いイスラエルだが、建国以来の主流派は一貫して、社会主義寄りのシオニズムを掲げる労働党だったためだ。
キブツと呼ばれる共有主義の集団農場が、その思想の実践で、冷戦下ではむしろ「反戦ヒッピー」的な西側の左翼学生にも、コミューンの理想としてキブツだけはけっこう人気があったのだ。

これまでも紹介してきたが、当時の日本で屈指のイスラエル通だった人に、仏文学者の村松剛がいる。政界の要人とも交流し、明白に「親イスラエル」でもあったので、バイアスはあるが、いまも叙述に学べることは多い。
同国で左(労働党)と右(リクード)のヘゲモニーは、いかに逆転したのだろうか。1983年が初版の『血と砂と祈り』にいわく――

労働党の信用の失墜によって、イルグンの流れのリクード党が政権をにぎることになりました。労働党の不幸は、ヨオロッパ系のアシュケナジームによって形成されて来たこの党が、アジア、アフリカ系のセファラディームの票を吸収する力をもっていなかったことです。
リクードのベギンもメリドールも東欧系のユダヤ人たちですが、セファラディームはその7割までが労働党への反感から、リクードに票を投じました。……ヨオロッパ系のアシュケナジームにくらべて、セファラディームは全般に出生率が高く、彼らはたいていがアラブ諸国から無一文で追放されて来た人びとですから、アラブ人にたいする憎悪の念はつよいのです。
中公文庫版、478・484頁
(強調を附し、段落と表記を改変)
セファラディームとは中東や北アフリカ出身のユダヤ人で、イスラエルの建国後に流入した人も多い。つまり欧州からシオニズムの思想に惹かれて入植した層と違って、インテリではない。
ご丁寧なことに村松も、「セファラディームが知的水準において一般に劣ることは、出身地の環境からいってやむを得ない」(478頁)とまで書いている。そこに迫害された心の傷が加われば、どうしたってタカ派的な報復を志向する。
労働党政権は1973年の第四次中東戦争を防げず、国の威信を損ねたと見なされていた。ご存じのオイルショックによる資源インフレで、生活苦への不満も高まっていた。こうした憤懣が、77年に右派政権の誕生をもたらした。
…はい、わかりましたね? このノリの元祖です。

2025.10.28の有名な1枚
カナロコより
「俺たちは意識高い」と称するインテリに運営を任せて、そこそこ社会がうまくいったから、国民の中央値より “左で寛容” な姿勢がプレステージになってきたのだ。うまくいかなくなれば、ドミノ倒しのようにひっくり返る。
ガザ紛争がここまでヤバくなったのは、右旋回した後もうまくいかずに、なら「もっと右行け!」と唱える極右の新党を無視できないためだが、似た構図は欧州でもすっかりおなじみだ。



かつてなく西側で多くの国が、さすがにイスラエルは「なくね?」と思い始める裏で、実のところ彼らは半世紀遅れて、イスラエルと同じ道を走り出している。まさに「おま言う」状態である。
どうしたら、いいのだろうか。
村松が描くように、初のリクードの首相となった1977年からのメナヒム・ベギンは、意外にも翌年にはエジプトとの和平を実現して世界を驚かせ、ノーベル平和賞も受賞する。鍵を握ったのは、外相のモシェ・ダヤンだった。
労働党の下で参謀総長や国防相を歴任した軍人だが、アラブとの共存は可能だと信じていた。右派の首相が「もっと右!」勢力に隠忍自重を説き、元軍人の外相が「平和」を語るがゆえの、二重の説得力が決断を可能にした。

外相への就任を求められたとき、ダヤンは占領地を併合しないことを条件としました。アラブ諸国との和平交渉がすすんでいるあいだは、占領地は併合しないとベギンは答えました。
(中 略)
ベギンだからこそエジプトとの和平が樹立できたのであって、なぜならベギンが野党の党首だったら、とイスラエルでは当時いわれていました。「シナイ半島の全面返還に、ベギンは大反対しただろう。」……右派諸勢力をベギンだから説得できた、ということはたしかにいえるでしょう。
同書、381・481頁
今日発売の『Wedge』9月号の連載「あの熱狂の果てに」では、村松の同書から、怨恨と紛争が連鎖し中東化する世界の出口を考えている。この夏ずっと発信してきた、「日本とイスラエル」の比較史の総決算でもある。
結びはずばり、以下のとおり。どうか多くの人の目に触れて、安易な “キャンセル” ではない形で、本当の問題を考えるきっかけになりますように。

ちょうど赤狩りを象徴するニクソンが米大統領であればこそ、毛沢東と握手できた時代だった(72年)。半世紀が経ついま、同じ坂を下りつつあるのはイスラエルのみではない。
(中 略)
81年にダヤンが亡くなる際の描写で、エジプトの外相が送った弔辞が引用される。それは失われつつあった世界から、今日に宛てた遺言のようにも響く。「ダヤンは誠実な男だった。彼は軍人として祖国のために戦い、次には平和のために戦った」
『Wedge』9月号、10頁
参考記事:


(ヘッダー左が1975年、ダヤンを取材する村松)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年8月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください







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