政府を動かす「専門家のグラフ」は誰が検証するのか

今回、一枚の少子化政策グラフが注目されることになった発端は、少子化問題ではなかった。

東京大学の本田由紀教授による、三笠宮彬子女王をめぐるX投稿である。

本田教授は2021年のオープンレター「女性差別的な文化を脱するために」の呼びかけ人でもあった。このため今回の発言をきっかけに、過去のオープンレター問題も再び注目されることになった。

この経緯については、アゴラでもすでに詳しく報じられている。

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その再燃の過程で、大学講師の桑原旅人氏は、かつて公開されていたオープンレターの賛同者リストをXに掲載した。

ここは重要である。桑原氏は、この投稿で山口慎太郎教授を名指しして批判したわけではない。

複数の賛同者名が並ぶ公開リストを示しただけであり、その中の一人として山口教授の名前が掲載されていた。

ところが、この投稿に対して山口教授は、自分はオープンレターに署名していないとして、桑原氏に投稿の削除を求めた。

桑原氏の側から見れば、公開されていたリストを紹介したところ、そのリストに名前が載っていた本人から投稿そのものの削除を求められた格好になる。

もし山口教授が実際には署名しておらず、公開リストへの掲載が誤りだったのであれば、それは重要な問題である。

しかし、その場合にまず問われるべきなのは、なぜ署名していない人の名前が、公開された賛同者リストに掲載されたのか、ではないだろうか。

誰が名前を登録したのか。
どのような確認手続きがあったのか。
どこで間違いが発生したのか。

山口教授はその後、オープンレターの呼びかけ人側に抗議し、経緯説明と謝罪を受けたという趣旨の説明をしている。

しかし、山口教授が呼びかけ人の誰に連絡したのかは明らかにしていない。また、呼びかけ人側からも、山口教授の名前がなぜ掲載されたのかについて、第三者が確認できる公式な説明は、筆者が確認した範囲では出ていない。

したがって現状、外部から確認できるのは、山口教授本人は「署名していない」と述べている一方、公開されていた賛同者リストには山口教授の名前が載っていた、という二つの事実である。

両者がなぜ食い違ったのかは、なお公開情報だけでは完全には検証できない。

そして騒動は、もう一段広がった。

山口教授と長年の共著者で友人でもある慶應義塾大学の中室牧子教授が、山口教授を擁護する投稿を行ったのである。

中室教授は山口教授について、「データや客観性」「科学的な手続き」を重視する研究者であるという趣旨の評価をした。

長年の共同研究者が友人を擁護すること自体は不自然ではない。しかし今回問われているのは、人物評ではなく、第三者が確認可能な事実である。

そうした事実が外部から確認できないまま、本人をよく知る研究者による人物評価が前面に出てくれば、大学・政策研究者コミュニティ内部での相互擁護と受け取る人が出ても不思議ではない。

だが、中室教授の擁護には興味深い言葉が含まれていた。

「データや客観性を重視し、科学的な手続きを重んじる研究者」

という評価である。ならば、それは研究者にとって強い擁護であると同時に、検証可能な評価でもある。

データと客観性を重視する研究者であるなら、その研究者が政府の政策形成の場で提示してきたデータやグラフも、第三者が追試できるはずだからだ。

「少子化対策が充実した国ほど高出生率」

そこで山口教授の過去の著書や政策資料を調べる人が現れた。

須藤玲司氏らが注目したのが、山口教授の『子育て支援の経済学』などで示されてきた、家族関係社会支出と出生率の関係を表す散布図である。

横軸に家族関係社会支出、縦軸に合計特殊出生率を置く。元の図では、各国を示す点の上に右肩上がりの回帰線が引かれている。

見た人は自然に、「子育て支援に多くのお金を使う国ほど出生率が高い」と受け取るだろう。

しかし問題は、その右肩上がりの線が、どれほど頑健なのかである。

須藤氏はOECDの元データを使い、グラフの再現を試みた。そして2015年時点のOECD加盟34か国をすべて入れて再計算すると、見た目が大きく変わった。

右肩上がりだった回帰線が、ほぼ水平になったのである。

図1 元図(左)と須藤玲司氏によるOECD全34か国の再計算(右)の比較

元の図では、読者の目には右肩上がりの関係が飛び込んでくる。しかしOECD加盟34か国すべてを対象とした須藤氏の再計算では、その印象がほぼ消える。

「右肩上がり」が「ほぼ水平」になる。

参考までに、この再計算では回帰係数0.000、相関係数r=0.001、p=0.995だった。

しかし、ここで本当に重要なのは小数点以下の数字ではない。

分析対象とする国の選び方によって、読者がグラフから受け取る政策メッセージそのものが変わり得る、ということである。

ここで注意したい。だからといって、「家族政策は出生率に効果がない」と結論することはできない。それは別の問題である。

今回問われているのは、この国際比較の散布図から、強い政策メッセージを読み取ってよいのか、ということである。

元の図では、分析対象が32か国に限定されている。高所得国に限定したという説明はある。

しかし須藤氏の検証では、当時OECD加盟国だったイスラエルや韓国が含まれていない一方、当時まだ加盟していなかった国が含まれるなど、対象国の構成について疑問が提示されている。

もちろん、イスラエルを除外すること自体が直ちに不適切というわけではない。宗教、移民、家族制度、人口構成などが他国と大きく異なり、分析上除外する合理的な理由はあり得る。

しかし、それならば、なぜ除外したのか、を示せばよい。

さらに、国を一つ加える、一つ除く、対象年を変えるといった感度分析を行っても結果が維持されるのであれば、政策的な証拠としての信頼性はむしろ高まる。

逆に、対象国を少し変えただけで右肩上がりの線が水平になるのであれば、その一枚をもって強い政策ストーリーを語ることには慎重であるべきだ。

一枚のグラフが政府広報へ

しかも、この議論は学術書の中だけにとどまっていない。

山口教授は2021年11月、「こども政策の推進に係る有識者会議」で「いま求められている少子化対策」という資料を提出している。

こども政策の推進に係る有識者会議(第3回)議事次第

こども政策の推進に係る有識者会議 議事次第|内閣官房ホームページ
内閣官房

さらに2023年2月7日には、政府の「こども政策の強化に関する関係府省会議」で有識者ヒアリングに参加し、発表資料も政府公式サイトで公開されている。

こども政策の強化に関する関係府省会議(第2回)

こども政策の強化に関する関係府省会議(第2回)|こども家庭庁
こども家庭庁は、こどもがまんなかの社会を実現するためにこどもの視点に立って意見を聴き、こどもにとっていちばんの利益を考え、こどもと家庭の、福祉や健康の向上を支援し、こどもの権利を守るためのこども政策に強力なリーダーシップをもって取り組みます...

そして2023年8月、経済産業省の公式媒体「METI Journal ONLINE」は山口教授を大きく特集した。

「緻密な論理と豊富なデータに基づく実証が高く評価されている」

と同記事は著書『子育て支援の経済学』を紹介している。

「日本の家族向け公的支援支出は、OECD加盟国の平均以下です。一方で、家族向け公的支援が増えた国ほど出生率は上がる傾向にあります」

と山口教授自身の発言も掲載されている。さらに、保育所拡充、公教育、現金給付などについて具体的な政策評価も続く。

パパが動けば変わる。「子育て支援の経済学」東大山口慎太郎教授の少子化対策

パパが動けば変わる。「子育て支援の経済学」東大山口慎太郎教授の少子化対策 | 経済産業省 METI Journal ONLINE
著書「子育て支援の経済学」で知られる山口慎太郎東京大学経済学部教授に、日本社会の最大の課題である少子化問題についてインタビュー。出生率向上で有効な政策は男性の子育て・家事の参加拡大だという。結婚後の夫婦関係のあり方が、子どもを持つという選択...

つまり、研究者の分析、政府会議、官庁の公式広報、一般国民という経路を通じて、一つの分析が政策ストーリーへ変換されていく。

だからこそ、その入口にあるグラフがどれほど頑健なのかは重要なのである。

蝶の羽ばたきが一枚のグラフにたどり着いた

ここまでの経緯を振り返ると、不思議な連鎖である。

始まりは、本田由紀教授による皇族についての一つのX投稿だった。

そこから過去のオープンレターが掘り起こされた。

桑原旅人氏が公開されていた賛同者リストを掲載した。

そこに名前のあった山口慎太郎教授が投稿の削除を求めた。

山口教授を中室牧子教授が「データや客観性」「科学的な手続き」を重視する研究者として擁護した。

ならば実際に、そのデータと科学的手続きを確認してみよう。こうして、山口教授自身が過去に示してきた政策資料まで掘り起こされることになった。

そしてたどり着いた先にあったのが、「少子化対策が充実した国ほど高出生率」という一枚のグラフだった。

まるでバタフライエフェクトである。

本田教授の一つのX投稿という「蝶の羽ばたき」が、巡り巡って、政府の少子化政策に接続したエビデンスの検証にまでつながった。

もちろん、この偶然の経緯そのものに学術的な意味があるわけではない。むしろ私が気になるのは逆である。

なぜ、このような偶然が起きるまで、政策に使われるグラフの再検証が広く行われなかったのか。

政策エビデンスの監査が、SNS上の偶然の「発掘」に依存していてよいのだろうか。

ここで私は、2020年の「接触8割削減」を思い出す。

当時、西浦博教授の数理モデルは、新型コロナ対策の政策形成に極めて大きな影響を与えた。

そして2026年、東京大学の岩本康志教授はアゴラで、その「接触8割削減」の背景となったモデルを改めて検証した。

コロナ政策の徹底検証(前編):「接触8割削減」に科学的根拠はなかった
「根拠と言えるものではない」のはしご外し筆者は、昨年『コロナ対策の政策評価』を上梓した。拙著の帯には「接触8割削減の科学的根拠を問う」と書かれており、6年前の2020年4月7日に緊急事態宣言が発出された際に、感染症数理モデルの分析に基づき感...
コロナ政策の徹底検証(後編):「接触8割削減」のずさんな説明
代替案を不利に扱う操作前稿で、8割削減が必要との主張の背景にあるモデル分析は、内的な整合性を欠くものであることを説明した。じつは、8割削減が必要との主張には、モデル以外のところにも、どのように説明されたかの部分に、科学的助言としての信頼性を...

もちろん、西浦教授の感染症数理モデルと、山口教授の少子化政策の散布図は、研究分野も手法も全く異なる。両者を同じ研究上の問題として扱うべきではない。

しかし制度上の問いは似ている。政府の政策判断に使われる専門家の独自分析を、誰が独立して検証するのか。

政府会議の一枚のスライドは、場合によっては査読論文以上に社会へ影響する。

それならば、政策に使われる分析については、使用データ、対象の選択基準、除外理由、分析コード、感度分析といった情報を、第三者が追試できる形で残しておく必要がある。

政府はEBPM、Evidence-Based Policy Makingを掲げている。

ならば、「専門家が示したからEvidenceである」のではない。Evidenceだからこそ、検証できなければならない。

再現できれば、その分析への信頼は高まる。結果が違えば、なぜ違うのかを公開の場で議論すればよい。

専門家をもっと信じることでもない。もっと疑うことでもない。専門家の分析だからこそ、政策になる前に誰でも追試できるようにする。

岩本教授が「8割削減」を本格的に再検証したのは、緊急事態宣言から6年後だった。

6年後では遅い。

そして、次の検証が誰かのX投稿という「蝶の羽ばたき」から始まるのを待つ必要もない。

「データと客観性」と「科学的手続き」を重視するのであれば、政策を動かす前に、第三者が検証できる仕組みを最初から組み込んでおく。それが最も自然な結論ではないだろうか。

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