
(前回:「次の西浦博」を育てるだけでいいのか:理論疫学に必要なのは反証者だ)
前稿では、西浦博氏が現在、若手の理論疫学研究者の育成に力を入れていることを取り上げた。

日本に理論疫学の専門家が少なかった。そのためコロナ禍では、一人の専門家がデータ分析から政策提言、国民への発信まで担うことになった——。西浦氏自身も、その構造を振り返っている。
では、専門家を増やせば、次の危機では同じ問題を防げるのだろうか。
私はそうは思わない。
問題は専門家が少なかったことだけではない。感染症専門家が何を担い、政治が何を決めるのか、その境界が曖昧だったことである。
感染を減らす。医療崩壊を防ぐ。命を守る。どれも重要だ。
しかし政治が判断するのは感染症だけではない。教育、雇用、営業、移動、家族との面会、文化活動、自由も公共利益である。
コロナ禍では、医療・公衆衛生が次第に批判しにくい「聖域」となった。
私はこの構造を、戦前の統帥権問題そのものと同一視するのではなく、構造的な比喩として「医療版・統帥権干犯」と呼びたい。
専門家は本来「助言者」だった
制度上の出発点は明確だった。
新型コロナウイルス感染症対策専門家会議は、政府対策本部の下に「医学的な見地から助言等を行うため」に設置された。政策決定主体ではなく、医学的助言者だった。
ところが、その境界は急速に曖昧になった。
専門家会議は「8割削減」を訴え、「新しい生活様式」では買い物、食事、娯楽、働き方まで具体的な行動変容を示した。
さらに、自分たちの分析や考えを「市民に直接お伝えすることが専門家としての責務」と明記している。
医学的助言は、社会の生活規範へ広がった。
「医療を守れ」が聖域を作った
「医療崩壊を防ぐ」「命を守る」。この言葉には強い道徳的正当性がある。
問題は、その正当性が個別の感染症対策にまで及んだことだ。
「その対策には本当に効果があるのか」「社会的損失に見合うのか」「感染者を減らすために、学校や店や面会をどこまで止めるのか」
本来なら政治が問うべき問題である。
しかしコロナ禍では、専門家への尊重が、専門家の提言を批判しないことへ変質した。
専門性は尊重されるべきだ。だが、不可侵であってはならない。
野党も「もっと対策を」と迫った
医療の聖域化を作ったのは政府と専門家だけではない。
野党も、政府の対策を「足りない」という方向から批判した。
2021年1月、立憲民主党の枝野幸男代表は衆院本会議で、ウィズコロナではなく「ゼロコロナ」を目指し、「まずは徹底した感染の封じ込め」に取り組むよう政府に提案した。医療体制の拡充とともに、封じ込めまでの補償・生活支援も求めている。
問題は、補償を要求したかどうかではない。
政府が「専門家の意見を踏まえた」と言い、野党が「まだ足りない」と迫れば、政治の争点は「その対策の根拠は確かなのか」ではなく、「どこまで強く感染を抑えるのか」になっていく。
コロナ禍で欠けていたのは、感染症対策の根拠を確かめ、その利益と社会的コストを比較し、どこまで許容するかを議論する政治だった。
メディアは恐怖を増幅し、国民も強い対策を望んだ
そこへマスメディアが加わった。
感染者数、重症者数、死亡者数、医療逼迫、将来の死亡予測。「42万人死亡」「8割削減」といった強い数字が連日報じられた。
危機、対立、極端な数字ほど注目を集める。視聴率、PV、部数を競う商業メディアには、危機を大きく扱う構造的インセンティブがある。
日本の4700人調査では、感染不安を感じていた人ほど、テレビやスマートフォン等を経由したインターネットを長時間利用していた。
国民も、強い感染対策を一方的に押しつけられた被害者だったわけではない。
2021年1月のテレビ朝日世論調査では、緊急事態宣言について79%が「もっと早く判断する必要があった」、72%が対象地域を「さらに広げる必要がある」と回答した。

国民自身も、強い感染対策を政治に要求したのである。
専門家が危機を示す。メディアが恐怖を増幅する。国民が強い対策を求める。政府が応じる。野党は「まだ足りない」と迫る。
感染症対策は自己強化していった。
危機が大きいほど、医療には金が流れた
さらに、この循環には「金」があった。
財務省によれば、2021年4月時点で医療機関・医療従事者へのコロナ関連支援は4.6兆円。そのうち病床確保料などの収入支援策だけで1.6兆円弱だった。

2022年4月には、医療提供体制等の強化に主なものだけで約16兆円、そのうち医療機関・医療従事者への支援は約8兆円に達した。
財務省は、国公立病院で大幅な黒字や現預金の積み増しが生じたことについて、「ワイズスペンディングとは言えない」と指摘している。

病床確保料は3年間で約5兆円。重点医療機関のICUでは1床1日43万6000円で、財務省資料では平時の1床当たり入院診療収益の約12倍とされた。
医療現場が大きな負担を負ったことと、巨額支援によって一部の病院が焼け太りしたことは両立する。
問題は制度のインセンティブだ。
危機を大きく評価するほど、医療には予算と政策資源が集まった。
反対に「通常医療へ戻せる」「病床確保を縮小できる」と言えば、予算も権限も縮小する。
恐怖を小さく評価するインセンティブは弱かった。
なぜ「統帥権干犯」なのか
1930年のロンドン海軍軍縮条約では、軍令部の反対を押し切って政府が兵力量を決定したことについて、「天皇の統帥権を干犯した」という議論が政治問題化した。外務省もこれを「統帥権干犯問題」と整理している。
もちろん、戦前の軍部と感染症専門家を同一視しているのではない。
似ているのは、専門領域を政治の総合判断から切り離し、不可侵化する構造である。
軍事について「軍事のことは軍人に任せろ」となれば、政治は軍事を他の国益と比較できなくなる。
感染症について「感染症のことは専門家に任せろ」となっても同じだ。
感染症専門家は、感染を減らす方法を示すことができる。
しかし、感染を減らすために教育、営業、移動、面会、文化、自由をどこまで犠牲にするかは、感染症学では決められない。
それを決めるのが政治である。
専門家は決めていない。だが国民は従った
ところがコロナ禍では責任の所在まで曖昧になった。
専門家は「最終決定は政府だ」と言える。
政府は「専門家の意見を踏まえた」と言える。
野党は「政府の対策が足りない」と批判する。
メディアは「専門家によれば」と報じる。
そして国民は従う。
専門家は決めていない。政治家も自分だけで決めていない。だが国民だけは従った。
これでは政策が間違っていたとき、誰が責任を負うのか分からない。
医療は重要だからこそ聖域にするな
コロナ禍で医療・公衆衛生を聖域化したのは、一人の専門家ではない。
専門家が危機を示し、政府が政策化し、野党がさらなる対策を要求し、メディアが恐怖を増幅し、国民も強い対策を求めた。そこへ巨額の公費が流れた。
全員の行動が、同じ方向へ自己強化したのである。
その結果として弱くなったのが、政治による総合判断だった。
感染症対策の根拠を確かめる。利益と社会的コストを比較する。採用する対策と採用しない対策を決める。そして、その理由を政治家自身の言葉で国民に説明する。
それが政治の仕事だった。
専門家を尊重することと、専門家を聖域化することは違う。
医療は重要だからこそ、政治が他の公共利益と比較しなければならない。
私が「医療版・統帥権干犯」と呼ぶのは、専門家が強かったことそのものではない。
社会全体が医療を聖域化し、政治がそれを統御する責任を失った構造である。
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