信長・秀吉・家康の初対面はいつだったかを推理

昨夜のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、徳川家康が大坂へ赴き、秀吉に臣従する経緯が描かれた。家康が秀長を暗殺しようとしたのは奇抜すぎたが、なかなか面白かった。

大河ドラマが描いた秀吉と家康の出会い

ところで、さきごろ、「『豊臣兄弟!』の描く徳川家康のどこが史実と違うのか」という記事では触れなかったのだが、秀吉と家康の出会いも大河ドラマは奇抜だった。

『豊臣兄弟!』の描く徳川家康のどこが史実と違うのか
明日のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、さんざんごねていた徳川家康が大坂へ赴き、秀吉に臣従する経緯が描かれることになる。先週は「徳川家康と秀吉の妹の結婚は家康が望んだ?」で、秀吉の妹の旭(朝日)が家康の正室として送り込まれる話について、『地...

1562年の清須同盟成立時に、家康が清須へやってきて、国境まで送り届けることを秀吉(藤吉郎)がやったことになっていた。

しかし、当時の秀吉は、美濃攻略のための特別任務のなかで頭角を現しつつあるころで、家康の接遇にかかわるような立場ではなかった。

また、小牧・長久手の戦いに先立って、秀吉の招待に応じて千利休ともども茶会に出席したということになっていたが、これも史実ではない。

今回は、それも含めて、信長・秀吉・家康のそれぞれの初対面はいつだったかをまとめてみたいが、実はすべてよく分からないのである。

信長と秀吉:藤吉郎はどのように信長に近づいたのか

1554年(天文23)から桶狭間の戦いの2年前の1558年(永禄元)あたりだ。

遠江の松下家を辞して中村に戻ってきた藤吉郎は、どのようにして信長の家来になるのが有利か、知恵を絞ったことであろう。

ちょうど中村出身の一若という人が信長の側にいると聞き、相談したともいう。ただ、藤吉郎は松下家で、殿様自身のお声掛かりで仕官しないと不利であることは知っていた。とはいえ、道端にひれ伏して「お仕えしとうございます」というのは、紹介者があってのことが多かったし、でなければ成敗されることもある。少年時代の井伊直政が家康に会ったのも待ち伏せだったが、井伊家の親戚と家康側近が打ち合わせをしてのことだった。

川並衆を利用したという話もありうると思う。藤吉郎は、信長が暴走族のような感覚で、踊りなどを身分と関係なく気の合う仲間と楽しんでいると聞いた。派手な色の変わった服装で、栗や柿、瓜を食べながら、仲間と肩を組んだりして歩いていたらしい。

江南市の小折にあった生駒家には、土田家に嫁入りしたが夫が戦死してしまった、吉乃(本名は分からない)という名前で今日では知られている信長より6歳年上の女性がいた。

信長は、斎藤道三の娘である帰蝶(濃姫)との間に子はいなかったが、道三の生前は側室を置くことは遠慮していたらしい。しかし、道三が亡くなると翌年から、吉乃に信忠、信雄、徳川家康の長男・信康の夫人になった五徳という子どもを産ませている。

「豊臣兄弟!」で小栗旬さん演じた織田信長

このあたりを面白おかしく書いた軍記物が、昭和34年(1959)の伊勢湾台風で土蔵が崩れて発見された資料をもとにしたという『武功夜話』である。時代背景の記述がリアルで辻褄が合うことが多いので、遠藤周作、津本陽、堺屋太一などの小説のネタ本になった。『豊臣兄弟!』も控えめながら逸話を採り入れている。

後世に付加された話も多く、偽書という人もいるが、信長の母親が土田政久の娘だとか、信忠らの母親については、江戸幕府が丹波柏原藩や出羽天童藩の織田家から書類を提出させた『寛政重修諸家譜』に載っているし、江戸中期に建てられた吉乃の墓にも、信忠の母と彫られている。蜂須賀正勝の嫡男で徳島藩祖の家政の正室は、吉乃の兄・生駒家長の娘だから、一族や地域の伝承をそれなりに反映している可能性が強い。脚色が多いというなら、軍記物はだいたいそうなので、そのことだけで無価値になるわけではない。

藤吉郎がその川並衆と付き合いを始め、まず蜂須賀小六と親しくなって居候になり、生駒家に出入りするようになったのもありそうな話だ。『武功夜話』には、吉乃に艶っぽい猥談などを聞かせて面白がられ、信長に紹介されたとある。フットワークがよく機敏で、算術にも長け、情報集めの才もあると信長に紹介され、最初は使い走りなどをしていて、やがて正式の家臣となったといったようなことではないか。

信長と家康:人質時代に面会していたのか

1547~49年(天文16~18)に、竹千代が尾張で人質生活をしており、このときに少年信長と面会した可能性はある。ただ、松平家から人質として提供したのではなく、今川家の人質になるつもりで、渥美半島から駿河に向かっていると思ったら尾張の織田に引き渡されたといった状況だから、織田家では逃げないように軟禁していたはずで、信長が会うような状況があったかは不明である。

となると、桶狭間の戦いのあとの1561~62年(永禄4~5年)あたりで、清須同盟成立の前後に両者が会談した可能性がある。清須城に家康が出かけたともいわれるが、不明である。

確実に会ったのは1570年(元亀元)で、若狭から敦賀に抜けて朝倉攻めをしていた信長の軍に家康は参加している。そのあと、姉川の戦いにも参戦している。

秀吉と家康:確実な対面は1586年の大坂か

秀吉と家康の対面も、このときだろう。また、長篠の戦いには信長も秀吉も参戦しているので、軍議などで会っていると思われる。

本能寺の変のあとは、1586年(天正14)10月26日に秀長邸で非公式に会うまで会っていない。そして、同年10月27日、家康が大坂城で秀吉に正式に謁見している。

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