【戦国時代の天皇④】秀忠の娘・東福門院の調停で朝廷と徳川は一時休戦

『誤解だらけの皇位継承の真実』(清談社)と『地図と閨閥で読み解く戦国地政学 織田・豊臣・徳川の盛衰』(さくら舎)を踏まえ、室町時代から江戸初期までの歴代天皇の視点から見た戦国史について書いてきたが、本日は最終回として後水尾天皇を取り上げる。徳川秀忠とお江の娘である東福門院(徳川和子)を中宮にし、修学院離宮の造営者であり、昭和天皇に抜かれるまでは(古代の天皇は別にして)最長寿だった天皇だ。

後陽成天皇の譲位騒動と後水尾天皇の即位

前回、秀吉が死んだ直後に、後陽成天皇が皇嗣とみられていた良仁親王を外して、同母弟の八条宮に譲位しようとした騒動について書いた。

なぜわが子でなく、弟に譲ろうとしたかは謎だが、1つの説明としては、庶長子である良仁でなく、正妻的な存在だった近衛前子の子である後の後水尾天皇に譲るための中継ぎとして弟を立てようとしたというのは説得的だ。

結局、この話は沙汰やみになり、1611年5月9日(慶長16年3月27日)になって、後水尾天皇への譲位がなされた。

この後、天皇が保持すべき宝物のかなりを後陽成は渡さず、後水尾と対立したので、父子関係が悪かったという受け取り方もあるが、むしろ、戦国時代に譲位や院政があまり行われなかったので、天皇と上皇の関係についての前例が乏しくなり、双方の側近が対立したとみるべきであろうと考える。

徳川幕府の朝廷への圧迫と突然の譲位

天皇が即位すると、家康は孫の和子の入内を申し入れ、慶長19年(1614年)4月に入内宣旨が出される。しかし、大坂の陣や家康の死去、後陽成院の崩御などが続いたため延期された。さらに、天皇と寵愛する女官の四辻与津子との間に皇子・皇女がいたことが明るみに出た。元和5年(1619年)9月15日に秀忠自身が上洛して、与津子の追放を試み、与津子の実兄である四辻季継らを豊後国に配流したので、天皇は譲位しようとするが、藤堂高虎が与津子を追放・出家させた(およつ御寮人事件)。

東福門院こと徳川和子(まさこ) Wikipediaより

元和6年(1620年)6月18日、和子が女御として入内すると、寛永2年(1625年)11月13日、高仁親王が誕生した。

幕府は、天皇がほかの女性に近づくことを極端に妨害したり、武士の官職叙任を別枠にして形式的なものであることを露骨に示したり、大坂の陣で仲介の申し出を拒絶したり、幕府の許可なく天皇から紫衣を賜った僧たちまで処罰したり、「禁中並びに公家諸法度」で殿上人たちの行動を厳しく縛ったりした。

豊臣時代とは打って変わった徳川家の圧迫に対して、後水尾天皇が一矢報いたのが、幕府の許可を求めることなく明正天皇に突然譲位したことだ。明正天皇は和子の娘だが、結婚することで徳川の血を引く跡継ぎができないようにしたという説もある。しかし、この2人にはほかの内親王もいたから理由にはならない。

1つ考えられるのは、このころ林羅山が幕府で発言権を増していたことだ。日本では昔から儒教道徳が重んじられていたという誤解があるが、もともとは、処世訓くらいにしか扱われていなかったし、室町時代あたりになると禅宗の思想体系の一部として注目され始めたくらいだった。

ところが、朝鮮出兵などもあって李朝朝鮮での思想に影響されて、藤原惺窩が本邦初の儒学者として名声を得た。その弟子が林羅山で、彼が天下泰平のイデオローグとなった。そして、儒教国では女帝はいないので、いくら古代に前例があるからといってよろしくないと助言したのだ。

東福門院の調停と後水尾上皇の院政

しかし、和子(東福門院)の取りなしもあって、幕府も譲位を受け入れた。このことで、後水尾天皇の行動を縛りにくくなり、ほかの女性との間に子をなすことが容易になり、中宮以外の女性に30余人の子を産ませ、56歳で出家した後、58歳で後の霊元天皇を産ませている。そして、幕府は院政を認め、それは霊元天皇の初期まで続いた。

明正天皇は即位から14年で譲位し、後水尾天皇の第4皇子だった後光明天皇が即位された。東福門院の入内より前に第1皇子が生まれ、東福門院も2人の皇子を産まれたが、いずれも夭折していたので、順当なところだった。

後光明天皇は21歳で亡くなられた。生母と同じ園家(道長の次男・頼宗を祖とする持明院家の分家)出身の母を持つ後の霊元天皇(後水尾天皇の第19子)を養子にしていたが、まだ幼少だったので、つなぎに同じ後水尾天皇の皇子で、後光明天皇より4歳だけ年下の後西天皇が即位された。幕府は生母が仙台の伊達綱宗と従兄弟であることに難色を示したが、東福門院の意向を尊重して認めた。

だが、もともとつなぎだったので、明暦の大火、内裏の炎上、大坂城天守閣の焼失などが続いたのを受けて、天皇の徳が足りないからだという議論まで出て、わずか10年足らずで霊元天皇に譲位されることになった。

後水尾上皇と東福門院は、この3人のうち最後である霊元天皇の治世の後半まで長生きされていたので、実質的には後水尾時代というべきものが継続していたといってよい。

徳川の天下安定と朝廷の変容

このころから幕府がとった方針は、もはや徳川の天下も盤石になったことでもあり、朝廷にさほど気を遣うのはやめようというものだった。東福門院が君臨している以上は、朝廷が反徳川に傾斜することもないという安心感もあったし、後光明天皇のときに3代将軍家光が死んだ後は、4代将軍家綱の時代も東福門院がいたので、女院の意向に逆らえる立場でもないということでもあった。

こうした関係を象徴しているのが、4代将軍家綱の将軍宣下が3代将軍家光までの伏見城でなく江戸城で行われ、家光の上洛の後は、幕末になって14代将軍家茂まで229年も将軍上洛がなかったことだ。

その代わりに、日光東照宮が建設され、天台座主も関東へ下った輪王寺宮(初代は後光明天皇の同母弟)が務めることになった。

朝廷は政務にまったく関与しなくなり、武家伝奏や摂関家には、たとえ天皇が幕府と対立しようとしても、止め役に入るような役割が期待された。

その代わりに、東福門院のおかげで、上皇も女院も贅沢な生活をすることができ、その象徴が修学院離宮である。また、女院のおかげで京都の呉服屋は大いに潤い、そんな時代の風俗を今に残すのが雛人形である。妃殿下たちのおすべらかしといわれる髪型も、平安時代に由来するのでなく、このころ市中で流行っていたものを採り入れたものだ。

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