仏教がインドから日本に伝来するまでの叙事詩(後篇)

昨日は、仏教が生まれてから、アショーカ王のもとでの体系化、ヘレニズム時代のガンダーラなどにおける大乗仏教への発展について論じたが(仏教がインドから日本に伝来するまでの叙事詩(前篇))、今回は中国および日本への伝来である。『今こそ知りたい創価学会と公明党』(TJMOOK)から抜粋して説明する。

この話は、『検証 令和の創価学会』(小学館)で取り上げ、さらに、私が監修した『今こそ知りたい創価学会と公明党』(TJMOOK)でも取り上げているが、『国家の興亡史からわかる現代地政学――西欧の衰退』(さくら舎)ではその背景を解説した。

中国に仏教が最初に伝わったのは前漢の末期ともいうが、盛んになったのは後漢以降である。後漢第2代の明帝が、ある夜、頂に白い光を佩いた人が西方から飛んで来る夢を見て、天竺に仏法を求めさせたところ、西域の大月氏国(タシケント)で天竺から来た摂摩騰と竺法蘭という僧に会い、白馬に経書を積んで永平10年(67年)に洛陽に戻り、僧たちに白馬寺を創建させたという。私も旅行で訪れた。

しかし、最初は道教と混在し、釈尊は西方に旅立った老子の生まれ変わりだとかされたが、三国・晋・南北朝の時代に本格的な隆盛が始まった。4~6世紀のことである。

三国時代の混乱のあと魏にとってかわった晋(西晋)が統一したが(265年)、北方民族の軍閥が政権を取ったので、江南の建康(南京)に移って、317年以降は東晋と呼ばれる。華北は五胡十六国の混乱になったが、鮮卑族の北魏が華北を統一した439年からは南北朝時代とされ、隋が中国を再び統一する589年まで続いた。

帝国におけるゲルマン人傭兵隊長と同じように実権を握られてしまった。鮮卑など少数民族は、現代では主に漢族に吸収されているが、漢民族の文化は彼らの影響で変質し、合わせ襟・長袖・スカートの和服に似た漢服から、詰め襟・短袖・ズボンの中国服へ変化したりした。

西域から、いずれも亀茲出身の仏図澄(232?-348年)や鳩摩羅什(344年-413年)などの高僧がやってきて、仏典の高度な漢訳も始まった。なかんずく、鳩摩羅什による法華経は名訳だといわれている。

鳩摩羅什は現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区アクス地区クチャ市(庫車市)にあった亀茲国(ウイグル自治区)で生まれた。インドのカシミールで学び、カシュガル(疏勒)で大乗仏教を学んで、五胡十六国時代の後涼(甘粛省武威)や前秦(長安)で仏典の漢訳に励んだ。

鳩摩羅什の訳は、中国語としてもこなれた意訳で緻密なのだが、道教の考え方なども少し入った。そこで、のちに『西遊記』の主人公である玄奘は、インドへ留学して原典に忠実な直訳を試みた。五胡十六国時代の華北で仏教が盛んになったのは、ユニバーサルな思想である仏教が漢民族でない彼らにとって受け入れやすかったからでもある。仏教はエキゾティックな建築、仏像仏具などの工芸、それに食事や音楽なども一体となって、西域文化と仏教がワンセットで中国に入ってきた。

北魏は鮮卑族というモンゴル系の国で、匈奴が南下したあと、西晋に協力して内蒙古から山西省北部を領土として認められ、平城近郊の雲崗に石窟寺院が造られた。また、都が洛陽に移ると、1367の寺院が建設された。

江南地方を支配した南朝でも仏教が盛んになったが、北魏では「皇帝如来」というように皇帝の権威を高めるために仏教が使われ、南朝では「皇帝菩薩」というように上流階級の人が心の平安を願うことが主流となった。

晩唐の詩人杜牧が、「千里鶯啼きて緑紅に映ず 水村山郭酒旗の風 南朝四百八十寺 多少の楼台烟雨の中」と詠んだように、貴族たちは大規模な荘園を構え、気ままに贅沢な暮らしを楽しみながら仏教に精神の安定を求めた。

南朝の末期に湖北省荊州で538年に生まれたのが天台大師智顗で、光州大蘇山の慧思(えし)禅師から法華経を学び、建康で布教したのちに浙江省の天台山に本拠を移した。

北魏は内紛で分裂し、漢族の有力武将の家から出た隋や唐が建国され、隋が全土を統一したが、南朝で活躍していた天台大師は遣隋使で知られる煬帝からも帰依を受けた。

日本と中国の交流史では、邪馬台国はその後の日本国家にはつながらないのでどうでもいい。本格的な国交の始まりは、5世紀に南朝の東晋や宋に使節を派遣した倭の五王である。とくに、478年に倭王武(雄略天皇)が書き送った上表文は、倭王が建国史を自ら物語っている。つまり、大和朝廷は畿内発祥で、東国、西国、さらには朝鮮半島を征服したといっている。これは、崇神天皇の時代に大和を統一し、ヤマトタケルらが東西日本に進出し、仲哀天皇と神功皇后が北九州を版図に入れ、さらに朝鮮半島に進出したという『日本書紀』の内容と整合性がある。

高句麗と倭国が群小国家群しかなかった半島で死闘を繰り広げ、倭王武は南朝に対して高句麗との戦いでの支援を求めた。こののち、群小国家群のなかから出た百済と新羅の成長もあり、倭国は半島での支配地を失い、大陸との交流は百済を経由して行うことで満足するようになった。

百済は日本と中国のあいだにあって総合商社的な役割を担った。また、百済には多くの漢族が住み、文化や技術の中心的な担い手となっていたので、いわゆる『帰化人』というのは、亡命者を除けば、王仁博士、止利仏師、秦氏などいずれも漢族である。

日本に仏教が伝来したのは、538年に百済の聖明王が欽明天皇に金銅の仏像や経典を贈ったときとされている(異説もある)。仏教は高句麗へは372年、百済へは384年、新羅では528年に伝来しており、仏像などが日本に輸入されたことがあったかもしれないが、国家レベルに持ち込まれたのがこのときである。

仏教は、写実的な仏像、豪華な道具、漢文で書かれた立派な経典も備え、国家とか社会とか文化を支えるトータルな文明システムだった。

古代寺院の姿を現在に伝える法隆寺(607年創建)Wikipediaより


今こそ知りたい創価学会と公明党

【目次】
序章 公明党と新党の今後を展望する
第1章 日本人が知らない巨大教団の実像
第2章 仏教史からひもとく創価学会の歴史
第3章 公明党とは何か
第4章 現代史からひもとく公明党60年史
終章 創価学会と公明党の未来

【参考記事】

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