近衛文麿の孫・護熙元首相が皇室を論じる裏事情

細川護熙氏が、8月10日発売の「文藝春秋」9月号で、「高市総理よ、日本を壊すな」という記事を載せている。高市政権のポピュリスト的問題についていろいろ批判していることについては、正しい指摘も多々ある。

細川護煕元首相

ただ、皇室典範改正についての批判は、元首相によるものとしてまことにお粗末だ。陶芸家になって長く国会議員をしていないので、ここ20年間の積み重ねを全く知らないで書かれたとしか思えない井戸端会議レベルのものだ。

とはいえ、近衛文麿の孫としての皇室、とくに昭和天皇に対する複雑な思いが根底にあるとみた。

近衛文麿の孫として政界入り

細川氏は石原慎太郎氏の裏番組のかたちで、参議院選挙に全国区から出馬して当選した。この最初に出馬したときは、近衛文麿の孫が売りだった。世間では東条英機が悪いので、近衛文麿が続けていたら開戦を避けられたという気分が少なからずあった。それに先立つ1969年には文麿の弟である指揮者の近衛秀麿が民社党から京都選挙区で出馬し、「兄・近衛文麿の志を継いで」と訴えていたのと同じだ。

しかし、1974年には児島襄の大著『天皇』で、昭和天皇が近衛に厳しい意見をもっていたことが書かれた。また、このころから、関係者が、昭和天皇が東条英機より近衛文麿の責任を重く見ていたことが明らかになってきた(より決定的になったのは、1990年の『昭和天皇独白録』の公表だが、それ以前に近衛への評価はがた落ちになっていた)。

昭和天皇のこうした評価ではしごを外されて、こんどは、細川家の立場に戻って熊本県知事、ついで「我れ現代の源頼朝たらんとして奢れる平家を誅す」とか、日本新党の立ち上げの際には言い出した。

もちろん、近衛文麿は単なる悪玉ではない。第一次・第二次内閣のときには、「蒋介石相手にせず」と大見得を切ったが、状況が悪くなると反省して辞任したし、第三次内閣で戦争を止められず辞任に追い込まれたあと、戦局が悪くなると早期和平をめざしてリベラル派を糾合して東条打倒に大きな役割を果たした。

つまり最低の総理だが、かなりよい元総理だった。それでも、戦後は昭和天皇を退位させて京都の仁和寺に押し込めようとしたりして昭和天皇の怒りを買っている。

「天皇は指導する存在」という感覚

つまり近衛文麿にとっては、天皇は摂政関白として指導する存在のような感覚だし、孫の細川にもそのセンスは受け継がれている。かつて、田中秀征氏に、細川は「あなたの人生において何が大事か」と聞かれて「あの世に行ったときに先祖たちに胸を張れるか」だといい、「たとえば誰か」と聞かれて「藤原道長だ」と答えたという。

もともと江戸時代には五摂家は伏見宮より格上だった。また、近衛家は道長の男系男子子孫ではなく、後陽成天皇と近衛前子の子が養子に入ったことがあって、細川文麿までは皇室の男系男子子孫だった。こういう背景が、旧宮家なにするものぞという気分の理由だろうし、旧宮家でも東久邇家は昭和天皇の血を引くとかいっても、昭和天皇は特別の存在でないという意識につながっているのだろう。

それから、皮肉なことに、彼はガラシャ夫人の子孫のような顔をして、明智光秀の墓がある大津市の西教寺を訪れたりしているが、実は子孫でない。というのは、忠興とガラシャの系統は三男忠利に引きつがれて8代目の治年まで続いたが、そこで断絶して、ガラシャの死後に妾とのあいだに儲けた立孝(宇土藩主)の5世の孫斉慈が跡を継ぎ、その6世の孫が護熙だ。斉茲は治年から12親等離れていた。

治年には常陸府中藩松平氏や公家の久我家に嫁した女子がいたが、男系男子を求めて、しかも、ガラシャ夫人の男系子孫はほかにいるが、いろいろ事情があって、護熙の先祖が熊本細川家を継いだのである。女系相続が許されるなら護熙氏は熊本藩主家にはなれなかったのであるから、お粗末な自己否定だ。

2005年の有識者会議をどう見るか

内容的には、「私が危惧するのは、そのような政治的意思が存在して、2005年の有識者会議の報告書で『国民の理解と支持、安定性、伝統のいずれの視点から見ても問題点があり、採用することは極めて困難である』として否定された案が、いつの間にか息を吹き返し、衆参3時間ずつの審議だけで、多くの国民が危惧するなか、野党も同調して可決されたという事実である。この先、一旦過去に否定されたものでも、甦って時の権力の手で実現されることもあり得るかと思うと、正直暗澹とならざるを得ない」といっていることだ。

周知の通り、2005年の有識者会議は、愛子天皇を確実にするために後付けの理屈を並べた。上記の旧宮家の可能性は、ろくに検討もされずに上記の一言で否定された。さらに、皇太子がなんらかの事情で新たな嫡出男子を得るというあまり可能性はない事態にまで備えてか、男子がいなければ女子だけでなく、弟がいても姉という日本社会の習慣に著しく反する方式を採用した。しかも、有識者会議のメンバーは著しく小和田恆氏と近い関係の人物が多く、公正とはいえなかった。

この極端さが国民の不信を買って紛糾するなかで、秋篠宮御夫妻がおそらく上皇御夫妻の了解ないし勧奨の下で悠仁さまの誕生となったのである。

そして、前提を失った有識者会議の報告は棚上げされ、2017年の生前退位法のなかで、秋篠宮殿下を皇嗣とすることが定められ、あわせて、付帯決議で新たな有識者会議が設置され、2005年の報告書は上書きされたのだ。

そういう国会における努力をなかったように恣意的に扱うとは、元首相としてちょっと恥ずかしい。


誤解だらけの皇位継承の真実 (清談社)


系図でたどる日本の皇族


誤解だらけの沖縄と領土問題(増補改訂版)

【関連記事】

コメント投稿をご希望の方は、投稿者登録フォームより登録ください。

コメント