※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)を元に、京極初子の回想記の形を取っています。(過去記事のリンクは文末にあります)
鶴松さまを亡くされた関白殿下は、姉の「とも」と三好吉房さまの長男である甥の三好秀次さまを養子にして、関白の地位と聚楽第を譲られました。この方については、次回にご紹介しますが、秀次様の弟に秀勝様という方がおられました。
早くから太閤殿下の養子になっておられたのですが、秀吉さまには、すでに実子で夭折された秀勝さま、信長さまの実子で養子だった秀勝さまがおられましたから、この秀勝さまは小吉秀勝などとも呼ばれます。
この小吉秀勝さまと、大軍団が大陸へ渡った年の2月、妹のお江が二度目の結婚をいたしました。
秀勝さまは、於次丸秀勝さまが亡くなったあとに養子となられたので、その遺領である丹波亀山城を拝領されていました。九州遠征でも大活躍されましたが、恩賞が少ないと殿下に抗議されたのを咎められていったん追放されました。
しかし、やがて許され、小田原の役のあとには、いったん甲斐の躑躅崎城に入られました。
そのあと、すぐに岐阜城に移られました。これは、母で夫とともに清洲城に住んで関白秀次さまの領地を管理されていたともさま(秀吉の姉)が近いところに秀勝さまを置いておきたいと望まれたからだともいいます。
この結婚は秀次さまが後継者になって不安にさいなまれていた、茶々や私にとっても、秀次さまの身内になれるということで、うれしく安心できる出来事でした。
秀勝さまとは、そう何度も会ったわけではありませんが、ちょっとやんちゃなネアカの次男坊で、お江と似合いの伴侶だったと思います。
ところが、秀勝さまは祝言を挙げて間もなく朝鮮へ向けて出陣されてしまいました。このころ、お江は秀勝さまが出陣されたあと懐妊していることが分かり、出産を控えておりました。ところが、そこに来たのが、秀勝さまが巨済島というところで戦病死されたという報せでした。
こうして二度目の結婚もあっけなく終わったお江でしたが、出産は無事にすみ可愛い姫が残されました。
この姫がのちに茶々の養女として公家の九条幸家さまと結婚した完子です。江が徳川家に嫁ぐときに、茶々のもとに置いていったのです。
慶長九年(1604年)になって、その子も13歳になりましたので、茶々は京都の九条家の幸栄さまに輿入れさせることにしました。もちろん、豊臣家の姫としてです。
茶々は張り切って嫁入り道具をそろえ、九条家のためには豪華な御殿まで建てて、京都の人々を驚かせました。この姫はのちに完子と呼ばれるようになりましたが、幸栄さまとの間に多くの子をなしました。
いちど二条家に養子に出た子を経由してですのでややこしいですが、幕末から近代にかけての九条家にもそのDNAは伝えられ、大正天皇の貞明皇后を通じて今上陛下にも、浅井や豊臣の血は受け継がれているということになります。
完子の子供のうち子孫が現代まで続いているのは、九条道房と東本願寺大谷家に嫁した序君です。
道房に嫡子はいなかったのですが、待姫が鷹司家から婿養子に入った九条兼晴とのあいだに、九条輔実があり、そこから幸教、二条家に養子に入った宗基、治孝、九条尚忠、道孝、貞明皇后、昭和天皇、今上天皇と繋がっています。
つまり、豊臣家の血は秀吉の姉ともの子孫を通じて今上陛下に繋がっている。(道房の八代姫は、広島藩主浅野綱晟に嫁ぎ、その子孫は大きな拡がりをもっている)
公家の場合、大名家のようなきちんとした側室制度でなく、家の子などといわれる女性に子供を産ませて、八瀬などに里子に出し、少し大きくなったら戻して正室の子として育てることが多く、うっかりすると、誰の子か分からないこともあります。
そんなわけで、正確にDNAをたどれるか心許ないこともあるのですが、それを言い出したら、お公家さんの家系はみなそうです。
いずれにせよ、この九条完子さまを通じて、浅井家、織田家、豊臣家の血が繋がっているのでございます。
■この回は『「系図」を知ると日本史の謎が解ける 』(青春新書インテリジェンス) の一部も活用しています。
「織田と豊臣の真実① お市に秀吉は惚れていた?」はこちら
「織田と豊臣の真実② 清洲会議と信長の子供たち」はこちら
「織田と豊臣の真実③ 賤ヶ岳戦とお市の死の真相」はこちら
「織田と豊臣の真実④ 小牧長久手戦と織田家の人々」はこちら
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「織田と豊臣の真実⑥ 淀殿が秀吉側室となった裏事情」はこちら
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