私がスペインで「20世紀最後の行商人」になった経緯

スペイン村での販売

HAG社以外にもう1社顧客ができた。それはデパートの催事で商品を展示して販売する会社だ。1980年代後半に筆者のところに日本のSHI社の真本さんという社長から電話がかかって来た。スペインでビジネスの手助けをお願いしようと思ってバレンシアまで来たがその人が見つからないので、弊社の方でそれができないかという打診の電話だった。彼が弊社を知ったのは筆者が休みなく送り続けたサーキュラーだった。

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SHI社がその当時やっていたビジネスは日本のデパートで定期的に催事を行う際に、そこで販売する商品を提供するのを専門にしていた企業だ。特に、スペインの民芸品の展示販売に強い関心を示していた。

また、催事の期間中に職人を呼んでその場でつくっているところをデモンストレーションすることもやっていた。それで、弊社の方でバレンシアの陶器に関係した民芸品やトレド細工などを輸出した。また、弊社の取引先の社長を日本に派遣して催事で実際につくっているところをデモンストレーションしてもらったこともあった。その旅費並びに日当などはすべてSHI社の方で負担した。

その後、彼の会社も三重県志摩のスペイン村にも出店することになった。そこで販売するスペイン小物商品も弊社の方からサプライした。また、デモンストレーションでスペインから職人さんも派遣したこともあった。土産物店で販売する商品であった。

陶板家具をバラチナ兄弟が生産開始

陶板家具の輸出はコンスタントに進展して行ったが、ㇽスティック社のビダル社長の不満が次第に強くなった。要するに、販売に進展が見られないということなのである。確かに、販売の進展は遅かった。しかし、筆者はそれを別のルートでも日本市場に販売することは考えなかった。HAG社以外にもう1社ができれば販売量が増えるように一見思えるが、別のルートからも販売すればHAG社が輸入卸業である限りいずれはバッテイングするようになると考えた。仮に新たにできる客が小売業者であったとしても出る量は大した量にはならないとも推断した。そうであれば、これまで築いたHAG社との関係にひびを入れる気もしなかった。

そんなことで、弊社の方で決めたのは多色彩家具を作っているバラチナ兄弟に陶板家具も生産してもらうことにした。それをHAG社に相談してOKを貰った。買い付けしても感謝してもらえず不満をたらたら言って来るルスティック社から買い付ける意義を弊社の方で失ったということだった。

それはバラチナ兄弟にとって進展の機会となった。HAG社にとっても、バラチナの方で多色彩家具と陶板家具を一緒に生産するということで買い付けでの効率もよくなった。20フィートとか40フィートのコンテナーに積むのにこの2種類の家具を同時に生産してもらうことが可能となった。バラチナにしてみれば、注文で多色彩が減って陶板が増えても、また逆の場合も売上は以前よりも多くなるのは明白なことで彼らは喜んだ。新しくモデルも増やした。

しかし、何事も永久に続くものはない。90年代に入ると景気の後退もあってHAG社の買い付け量が下降するようになった。1991年頃だったと思うが石川さんがバレンシアを訪問されていた際に、これからはHAG社からの買い付けボリュームが次第に減少して行くようになるから、弊社の方から日本市場に直接アタックして顧客の開発に積極的に進めて行く方が良いというアドバイスを戴いた。それは、HAG社からの買い付けボリュームが次第に下降していくのを観察していた筆者もその必要性を感じていた時だった。

これが筆者が行商人となるきっかけとなった。1994 年から2011年まで日本を頻繁に訪問した。それでスペインと日本を往復した回数は70回以上。これが筆者を自称「20世紀最後の行商人」としていったのである。

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