「脱炭素と気候変動」の理論と限界②:斎藤本のロジックとマジック

金子 勇

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「科学は必要な協力の感情、我々の努力、我々の同時代の人々の努力、更に我々の祖先と我々の子孫との努力の連帯性の感情を我々に与える」

(太字筆者。ポアンカレ、1914=1939:217、ただし現代仮名遣いに筆者が変更した)

バランスの取れた脱炭素論へ

ここでは社会学理論に依拠しつつ、「脱炭素と気候変動」支援理論とそれへの懐疑的議論との速やかなバランス感覚の回復を図るため、斎藤とラワースが形成した支援マジョリティに対して、懐疑派からのマイノリティ的な異論を展開する。

それは、近未来日本が創造できる「新しい経済社会システム」のうち、電力を軸とした広義のエネルギー資源問題について、健全な方向性を回復させる目的をもつものである。一般論としても、「反対意見と緊張関係は互いを糧に成長していく」には真理が潜んでいるからでもある。(プラマー、2016=2021:266)

(前回:「脱炭素と気候変動」の理論と限界①:総説

斎藤が生まれる7年前の1980年に、野坂昭如『右も左も蹴っ飛ばせ』(文藝春秋)が出た。野坂の本と斎藤が行った「右も左も蹴っ飛ばした」内容は全く異なるが、私はその姿勢に類似性を感じた。

何しろ現今の資本主義諸国システム批判はもちろん、国連のSDGsを「アヘン」とよび、グリーン・ニューディールを矛盾と決めつけ、いずれも「蹴っ飛ばした」のはいいが、残ったものは恐ろしく空虚で「ラディカルな潤沢さ」に酔う「脱成長コミュニズム」論しかなく、「より良い社会」すなわち「共通善」(bien commun)が見えてこないからである(ティロール、2016=2018:18)。

『人新世の「資本論」』の功罪

しかし、日本の読書界への本書の影響力は甚大なものがあるようで、アマゾンを始めネットだけでも膨大な書評が溢れており、斎藤本に賛成しその内容を肯定する比率が8割、疑問や批判を投げかける比率が2割と言ったところか。

2020年秋の第一刷から、私が購入した2021年3月の第九刷までで20万部突破、現在では45万部達成したという。これは近年稀に見る快挙であり、社会科学系の本としては『人新世の「資本論」』ブームが到来したかのように思われる。私はこれだけの内容を新書版に盛り込んだ斎藤の筆力には敬意を表するが、長年生業としてきた社会学・社会科学の観点から、同業者の一人として、本書の形式と内容について3点にしぼりながらコメントをしてみたい。すなわち、

  1. 先行研究の扱い方  文献探索と概念の整理
  2. 現状分析の方法   関連データの精査と事例研究
  3. 将来展望の仕方   分析から総合への推論の方法

という論点に絞ると、本書がもつ特徴が浮き彫りになり、その延長線上に現代日本の社会科学の在り方も見えてくる注7)

何よりも私が気になったのは、本書が①晩期マルクスの思想研究、②気候変動への批判と対処方針を無理やり接合した点である。すなわち、斎藤の専門である「経済思想、社会思想」だけで勝負するか、現実感覚に優れ、鋭い問題意識をもち「気候危機」の原因分析と処方箋づくりに特化するかのどちらかに限定した方が、読書界にはもっと裨益するところが大きかったと考える。

しかし、「二兎を追う」という形での出版になったのだから、上記の3点を軸にして、もっと現実的な社会科学に構築し直すための条件整備をしておこう。

拮抗する地球寒冷化現象と地球温暖化現象

ほぼ10年前に二酸化炭素地球温暖化問題を知識社会学として扱った際に、両方の現象を比較するために表1を作成した。

表1 地球寒冷化現象と地球温暖化現象の比較
(注)GNはグローバル・ノース、GSはグローバル・サウスを表わす。
出典:金子勇(2012:176)を修正

まずは、歴史的経緯を踏まえて、「地球寒冷化」と「地球温暖化」に分けて、それらに及ぼす影響を自然現象と人為的現象に分割して組み合わせた。こうして作られた4象限に、火山爆発の噴煙粉塵、大規模山火事の噴煙粉塵、大規模焼畑農業の噴煙粉塵、自然界の二酸化炭素濃度上昇、人為的な二酸化炭素排出などの現象が、主にGNとGSのどちらで認められるのか、あるいは両方なのかを想定して分類したものである。

温暖化要因の一つであるメタンは自然界でも普通に発生するし、人為的にも石油分解ガス・石炭ガスにも含まれる。また、白色エアロゾルは寒冷化、有色エアロゾルは温暖化の引き金の一つになるようである。そして、水蒸気は自然界の温暖化要因になる。

「気候変動問題」の総合認識の欠如

表1からは、要するに気候変動を人為的に扱えるのか、扱えてもせいぜい六分の一であり、残りの六分の五は自然現象であるという赤祖父(2008)の言説を超えるレベルにあるのかどうかが、二酸化炭素地球温暖化論者には依然として問いかけられることが明白であろう注8)

同時に、今日の「脱炭素社会」論でも「二酸化炭素地球温暖化論」でも、「炭素」や「二酸化炭素」しか問わない言論に満ちあふれていることが表から分かるはずである。これでは「気候変動問題」の総合認識の点で不十分ではないか注9)

また、斎藤が自著で引用した2017年の二酸化炭素の世界全体での国別排出量グラフのうち、日本が占める割合が3.4%であることにより、「気候変動には、日本人にも大きな責任がある」(斎藤、前掲書:22-23)とすれば、その8倍以上の28.2%の第1位の排出量を占めるコミュニズム中国は言わずもがなであろうが、斎藤の言及は全くない。同じく現代資本主義の最先端を行くアメリカが14.5%であり、日本の4倍以上の排出量も等閑に付されたままである。斎藤の分類でGSに該当するインドの6.6%やロシアの4.7%にもほとんど触れられない。これまた一面的な議論の仕方である注10)

「南北問題」という表現をやめて、GSとGNを使う意味は分かるが、「資本主義の矛盾がグローバル・サウスに凝縮されている」(同上:26)わけではないであろう。なぜなら、GNの大半が誰も見たことにない2050年の「脱炭素社会」のために、世界中では100兆円をすでに費消してきたからである。矛盾の凝縮はGNの構成国であるアメリカにも日本にも存在する。

「脱成長」は「繁栄」とは無関係か?

2050年の二酸化炭素濃度を予想して、それを基にシミュレーションをいくら繰り返しても、入力データが違えば温暖化予想にも寒冷化予想も可能である。ましてや150年前の晩期マルクスの予言を聖典にしても、科学的成果はその言説とは無縁である。

なぜなら斎藤もラワースも期せずして、「脱成長」は「繁栄」とは無関係だと論じているからである。前者が、資本主義の「アンチテーゼとしての脱成長は、GDPに必ずしも反映されない。人々の繁栄や生活の質に重きを置く。量(成長)から質(発展)への転換だ」(斎藤、前掲書:134-135)とのべ、後者もまた「成長しないでも繁栄を遂げられる経済を設計する」(ラワース、前掲書:404)という立場を表明している。

しかし、両名が長年にわたり学界で蓄積されたきた「経済成長論」や「社会発展論」を正確に受け止め、具体的に批判したうえで、自説を展開したわけではない注11)。そのため、国民間でマジョリティ受けはしても、マイノリティではあるがこの方面の専門家のなかには批判的見解を持つ人が増えても不思議ではない注12)

「脱成長」の原動力は再生エネルギーだけではない

斎藤は、「先進国が排出する二酸化炭素による気候変動」(同上:348)のせいで、「途上国の、社会的に立場の弱い人々が大きな被害を受ける」(同上:348)から、「資本主義の経済成長に終止符を打つ必要」(同上:350)を繰り返し力説した。

同じく、ラワースもまたロストウモデルを改変した最終段階の「着陸」準備のためにも、「温室効果ガスの排出量の削減」(ラワース、前掲書:308)を位置づけて、「化石燃料の利用の削減」(同上:376)を主張しながら、同時に「再生エネルギーに期待」(同上:375)を強調しているからでもある。両書とも、「脱炭素と気候変動」を社会科学の面から支援する意図が鮮明なので、懐疑派からの批判は今後増えてくるであろう。

「成長抜きの繁栄」はもちろん、その手段が「再エネ」であるとの論点は、「資本主義の終焉」論の先を模索するという私の問題意識にも逆の意味での関連が深い注13)

このように、新書版とはいえ斎藤本は「最新のマルクス研究の成果を踏まえて、気候危機と資本主義の関係を分析」(同上:359)しようとした研究書という位置づけを取っている。そこでは「資本主義」の次段階を「脱成長コミュニズム」としたが、「経済成長を減速する分だけ、脱成長コミュニズムは、持続可能な経済への移行を促進する」(同上:299)方法は、経済社会システム全体レベルについては最後まで具体的には示されなかった注14)

(次回:「脱炭素と気候変動」の理論と限界③に続く)

注7)これらは、いちおう「批判」的な見解からのコメントである。しかし、「批判するとは、正しいことを誤っていることから分離しつつ、またよい点を悪い点から区別しつつ、真理を探究することを意味している」(ベルナール、1865=1970:307)を十分に意識した内容を心がけたつもりである。

注8)これは国際環境経済研究所WEB連載(その4)で触れたとおりである。

注9)2022年1月15日、トンガで発生した海底火山の大爆発で、久しぶりにその噴煙粉塵が成層圏に達することにより、「地球寒冷化」への原因にもなるという論調が散見された。

注10)岩田もまた、この問題について同じ趣旨からの批判を行っている(岩田、2021:11)。

注11)ラワースのほうが1960年代に「経済成長論」で世界的に影響力を持ったロストウ(1960=1961)や大著シュムペーター(1950=1995)に触れている分だけ、まだ「経済成長」学説史を踏まえた議論になっている。ただし、「人が恐れなくてはならないのは、ただ不備な科学、誤った科学だけである」(ポアンカレ、1914=1939:224)ので、もちろんこの文章は自戒を込めて引用している。

注12)柿埜(2021)では、斎藤本のほぼ全体にわたって詳細な批判がなされている。

注13)20世紀末思想の延長上に、21世紀に入ってから「資本主義の終焉」論が内外ともに流行している。多くの場合は「終焉」論の要約・紹介・分類などに止まり、「終焉」先の社会システムが鮮明には浮かび上がらないままである。この辺りの事情については濱田・金子(2021)を参照のこと。

注14)社会科学の分野で空前の売り上げを達成した斎藤は、ラワース本を高く評価して、「経済成長しなくても、既存のリソースをうまく配分さえできれば、社会は今以上に繁栄できる可能性がある」(傍点金子、斎藤、前掲書:108)とした。ただし、「仮定法」による論述が多用されている点に注意したい。

【参照文献】
・赤祖父俊一,2008,『正しく知る地球温暖化』誠文堂新光社.
・Bernard,C.,1865,Introduction à l’étude de la médicine expérimentale .(=1970,三浦岱栄訳 『実験医学序説』岩波書店).
・濱田康行・金子勇,2021,「新時代の経済社会システム」『福岡大学商学論叢』第66巻第2・3号:139-184.
・岩田規久男,2021,『資本主義経済の未来』夕日書房.
・柿埜真吾,2021,『自由と成長の経済学』PHP研究所.
・金子勇,2012,『環境問題の知識社会学』ミネルヴァ書房.
・金子勇,2020,『ことわざ比較の文化社会学-日英仏の民衆知比較』北海道大学出版会.
・金子勇,2021-2022,「二酸化炭素地球温暖化と脱炭素社会の機能分析」(第1回-第7回)国際環境経済研究所WEB連載.
・金子勇,2022,「自然再生可能エネルギーの『使用価値』と『交換価値』」神戸学院大学現代社会学部編『現代社会研究』第8号:近刊予定.
・Plummer,K.,2016,Sociology:The Basics,Routledege.(=2021 赤川学監訳 『21世紀を生きるための社会学の教科書』筑摩書房).
・Poincaré,H.,1914,Dernières pensées.(=1939 河野伊三郎訳 『晩年の思想』岩波書店).
・Rostow,W.W.,1960,The Stages of Economic Growth,Cambridge University Press.(=1961 木村健康・久保まち子・村上泰亮訳『経済成長の諸段階』ダイヤモンド社).
・Schumpeter,J.A.,1950,Capitalism,Socialism and Democracy,3rd. Harper &  Brothers.(=1995 中山伊知郎・東畑精一訳『資本主義・社会主義・民主主義』(新装版)東洋経済新報社).
・Tirole,J.,2016, Économie de bien commun,Presses Universitaires de France.(=2018 村井章子訳 『良き社会のための経済学』日本経済新聞出版社).

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