「私は聞く、地元の声を!」だけでは不十分
政治には、本来すべての分野を大観したうえで、比較秤量して優先順位を決定する機能が求められる。それは今日の「少子化する高齢社会」の進行のなかでも変わらない。
職業政治家(states-person)は「少子化」や「高齢化」のスペシャリストである必要はないが、政策決定の際には多方面への目配りができるジェネラリストではありたい。広い関心領域をもち、基本的知識と情報の摂取を日々心掛けることが国民から求められている。
とりわけ国会議員ならば、世代代表ではなく選挙区という地元代表だからといって、「私は聞く、地元の声を!」だけでは見識不足であり、それだけでは責任を果たせない。なぜなら政治活動を補佐する3人もの公設秘書が与えられ、様々な特典があるのも、議会で正確な知識と情報を基にした適切な判断力が強く期待されているからである。
だから「地元の声」と言っても多様性に富んでいて、どの声を取り上げて、政策に持ち込むかは、政治家の見識による注1)。
高齢者と高齢社会
21世紀前半の日本のように高齢者が急増する高齢社会では、ともすれば年金、医療、介護、保健、福祉などの日常的な公的サービスに関心が置かれがちである。これは政治家だけではなく、マスコミや財界でも同じであり、これらのテーマは高齢社会を論じる際には不可欠なものである(連載第5回 5月24日)。
しかし高齢者個人の側からすると、せっかくの日常生活を、可能な限り「生きがい」を感じて営みたいという大目標があってこその公的サービスでもある。とりわけ通院していても毎日薬を飲んでいても、在宅で暮らせるならば、公助から商助までも含めて、各種サービスを受けながら「生きがい」を追求する人も多い注2)。
社会学での「役割」という発想
そうであれば、政治の対象が年金や医療や福祉などの分野別サービスだけに特化しては、高齢者の「生きがい」問題に対応できない。なぜなら、「生きがい」は「生きる喜び」の象徴だから、その内容に関しての包括的議論が求められるからである。
それには社会学における「役割」という考え方を活用することが有効である。高齢者だけではなく人間一般に「役割」論を敷衍して、「暮らすこと」や「生きること」を「役割」を通してみていくのである。
社会学=人間の共同生活の科学
というのも、社会学は究極的には「人間の共同生活の科学」であり、それは人間論、共同生活論、科学論の三方向に枝分かれして、分割された後で最終的に統合される宿命を持つからである。
このうち人間論を人間関係における役割セット(role-set)で理解するのが社会学の個性である(マートン、1957=1961:335)。役割は必ず社会的地位に関連しており、両者が揃って社会構造を作り上げる。社会構造の下位カテゴリーには縦の関係にある権力と階層、横の関係にある地域と集団が存在する注3)。そしてすべてに老若男女個人の地位がある。
役割は地位に伴う
ここにいう「地位とは、特定の諸個人が占める社会体系内の地位を意味し、役割とは、かかる地位に属する型式化された期待を行動的に演ずることを意味する」(同上:334)ものである。
権力構造の地位(たとえば首相)と集団関係における地位(たとえば会社社長)はもちろん異なる。階層的地位(たとえば大学総長)と地域の中での地位(たとえば市長)にも相違がある。そのために個人はいくつかの地位に伴う役割葛藤を経験することになる。
役割葛藤
たとえば会社の営業課長と父親としての役割葛藤の象徴は、職業を優先して日曜日の接待ゴルフを選ぶか、父親として子どもの運動会参観を優先するかの二者択一になる。
会社の課長は小学校での運動会ではたんなる生徒の保護者という地位であり、所得や資産の高低は必ずしもPTAの序列には連動しないのはいうまでもない。
役割縮小過程としての高齢期
このような役割論での高齢者は、それまで担ってきた役割が次第に失われる存在と見なせる。そのきっかけとして定年退職があり、職業に関連したすべての肩書が消えてしまう。
この「役割消失」を含み、全体として高齢者を「役割縮小過程にある」(金子、1995:108)と規定したことがある。前期高齢者や後期高齢者さらに要介護高齢者などのラべリングとは別に、「役割縮小」もまた「生きがい」論に応用可能なラべリングとなる注4)。
役割を演じる
なおここでは、バウマンのいう「わたしたちは、日常生活のなかでさまざまな役割を演じているが、その集団の仲間たちは、通常、私たちの他の役割には関心がない」(バウマン&メイ、2001=2016:110-111)に留意しておきたい。なぜなら、地位に伴う役割には多数の社会的ネットワークが付随しているからである。
しかし仕事の現場では、教室での講義者と受講者に単一化されるように、教授と学生とは一点の役割でつながっているだけである。教授も学生もたくさんの役割セットの束を持つが、教室では講義役割と受講役割だけでつながっている。これは診察室での医師と患者との関係でも同じである。
だから役割関係では職業に関連する業務遂行上の利害関係を伴うことが多く、陳情だけではなく、強制、温情、忖度などの場面を構成し、場面ごとに役割が変換されやすい。たとえば、「白を黒と言わざるをえない」「見て見ぬふりをする」などは、状況次第で発揮する役割にとっさの変更を生じさせたことを意味する。
固定役割としての人類役割と家族役割
さて、老若男女としての個人は様々な地位をもつが、大枠として地位に基づく役割は4種類に分けられる。一つは人類の一員としての固定役割があり、平和や安全の維持確保それに地球環境の維持に関する行動を含む。人類の一員としてのこのような固定役割は、古今東西の老若男女全てが担うことになるため、図1には登場しない。
しかし家族の中で誕生する人間は幼いころから家族のなかで固定役割をもつ。それは年齢とともに増えていくが、子どもとしての役割、親としての役割、高齢者としての役割などに拡散する。
固定役割は家族に関連していて、出生後の人間は社会化とともにその役割を拡大する。学校を卒業して、就職・結婚・子育て・子どもの自立・定年退職というような男性のライフコースでみても、子どもの自立までは父親としての固定役割は増えこそすれ減ることはない。
しかし、同じころに迎える定年の後になると、家族内の固定役割は縮小を始める。もちろん個人が生きている限り、いくつになっても家族役割は残り、子どもや孫の就学、卒業、就職、結婚などの場面で発揮され続ける。そして本人の配偶者の死などにより徐々に失い始める。この間、行政、企業、地域社会、本人と家族などの努力により、バックアップシステムが作動する注5)。
循環役割としての職場役割
さらに、親の世代は仕事での職場役割を優先して数十年間働く。職場役割は昇進とともに職業キャリアのなかでは拡大の一途をたどるが、退職とともに一気に消失する。そこからその人の「役割縮小」が始まるが、その人の職場役割は定年で消えても、その地位には他の誰かがついてその職責を担うから、職場内での地位=役割(営業課長や社会学教授)は切れることなく循環的に連続する。
定年後になると、子育てが終わり子どもや子ども夫婦と別居する高齢者も増える。すなわち、個人のライフコースでは、子どもの自立などで家族役割が最初に縮小を始め、次第に父や母ないしは祖父母としての家族役割が乏しくなる。
流動役割としての地域役割
残りは地域役割だが、これは家族制度や職業制度とは異なり、堅固な役割体系を持っていない。緩やかなので、個人がそれを強く求めるか、周囲がその特定の個人に無理にお願いするかによって獲得できる役割セットになる。
町内会長、自治会長、区長、班長などが居住地域のなかでの公的な地位とそこから導き出される役割であるが、もちろん地域に暮らす人々全員分には不足しているし、誰が担うかも流動的である。
ただし、地域社会で制度化された町内会長や班長などの役割を獲得して、その遂行を日常的に行うためには、輪番制の班長を除けば、個人による積極的な地域社会への関与を前提とする。性格的にこれになじめなければ、もう一つの個人的な「関心縁」づくりを行う。
関心縁による集まりでの役割
かなり前から全国の自治体では高齢者福祉行政の一環として、さまざまな地域集団、趣味のサークル、娯楽の機会などを社会福祉協議会とともに用意してきた。それに応じて高齢者も囲碁将棋やパークゴルフやカラオケなど自分の関心に従って、「関心縁」のなかで同好者の集まりを探して交流する。
その人の関心が広がれば、いくつもの「関心縁」が共存して、「毎日が日曜日」の状態とは無縁になる。しかし、本人の努力と運がなければ、流動役割としての地域役割も獲得しえない。
高齢者の生きがいは「役割回復」から
そうすると、人類役割は固定的としても、高齢者になれば、家族役割、職場役割、地域役割のすべてで縮小もしくは消失してしまう恐れに直面する。そのままでは高齢者の「生きがい」は得られないから、「役割」論に基づき「役割回復」へと歩みだすための道を支援することが、政治や行政における新しい高齢者支援の領域になる。
この方面の高齢者対策は、年金、医療、介護などの福祉面での支援とはかなり異質ではあるが、「役割回復」を基軸とする支援課題は今後とも不可避となるはずである。
なぜなら、「無縁社会」が高齢化とともに顕在化してきたからである。
限界役割効用を活用する
「無縁社会」でも人とかかわりあって高齢者が生きがいを求めていく政策を考えるために、私が造語したのは「限界役割効用」という用語であった(金子、1993:61)。これは地域福祉の調査で特に町内会長とインタビューを繰り返したことから気がついた概念であり、経済学では周知の「限界効用」(marginal utility)を下敷きにした。
これはある財の消費量、たとえば鉛筆を増やすとき、一本増えるたびに得られる満足度すなわち効用が減少するという法則を応用したものである。具体的には筆記具の持ち合わせがなければ、最初の1本の効用は天文学的に高いが、2本目からのそれは次第に乏しくなり、5本にもなれば、効用を特に感じなくなる。
人の場合はやや事情が違うが、「役割縮小過程」に入った高齢者が町内会の班長という新しい役割を手にした時に感じる大きな効用と、次第に役割が増えて、たとえばある政党の支部長、シルバー人材センター運営委員、町内会長、市役所の地域福祉審議会の委員、出身高校の同窓会の幹事、元の職場の同期会会長などを引き受け続ければ、5つ目あたりからはそれほどその役割に効用を感じないという調査体験から作り上げた概念である。
高齢者の生きがい
私の高齢者の研究は、最初の10年くらいは地方都市在住の60歳から79歳までをランダムサンプリングして、訪問面接法により得たデータの計量的な解析を軸としていたが、次第に質的方法としてのインタビュー法も行うようになった。内容的には後者の方がたくさんの知識が得られることが分かったからである(金子、2014)。
しかし計量的手法による因子分析からは、高齢者の「生きる喜び」は「社会参加」、「家族交流」、「友人交際」、「趣味娯楽」に類型化できたし、その後の調査でも「趣味娯楽」とは独立した存在である「得意」を抽出できたので、こちらも一定の成果が得られたと感じている(同上:177-203)。
そのような計量的研究では、一般に家族や親戚との関係が良好である、元の職場での同僚との関係性はいい、友だちとのつきあいもうまくいっているといった人間関係のレベルでは、「生きがい」を押し上げる要因とそうでない要因が抽出できる。
いくつかの地方都市での「高齢者生きがい」調査では、74歳までの高齢者には支持されるが、75歳からの高齢者では該当しにくいものもあり、健康な人には効く反面、健康を害している人には有効とはいえないといった細かい発見がたくさん得られた。
生きる喜び
それで、「生きがい」の比較調査によって確認できた暫定的結論を紹介しておこう。
- 生きがいは外国語に翻訳できない日本語特有の意味合いがある。
- 定義の検討に深入りするのをやめ、生きがいを「生きる喜び」と位置付けて、調査票に項目を盛り込み、主要因を探究し、要因間の関連にも配慮する。
- 「生きる喜び」の軸は個人の生活・生存・維持、およびその個人的目的の遂行過程と達成を喜ぶ心情にある。
- 高齢者の生きがいは他者から与えられるものではないが、日本には中央政府や自治体による高齢者の生きがい対策があり、条件整備を行おうとするこれらの政策努力は受け入れたほうがいい。
- 宗教心が強い社会や個人では、信仰そのものが「生きる喜び」となるが、日本の高齢者でそれは極端に少ない。
- 宗教的背景が乏しい日本の高齢者は、世俗的な日常生活において自力で生きがいを得ようとする。
- 時代の特性としての多様性を受け入れた社会的価値に照らして、日本の高齢者は「生きる喜び」の下位領域として手段性(instrumental)を重視して、「生きるはりあい」、「自己実現」、「アイデンティティ」などを求める。
- 「生きる喜び」の復活には、表出性(expressive)に富む自己肯定的な社会活動への参加、家族との交流、健康づくり、友人交際、趣味娯楽活動、得意分野の継続が有効である注6)。
- 「生きる喜び」は日常的な自己の満足と未来を遠望した際の自己評価との一致度で得られる。
- 日常的肯定としての高齢者の「生きる喜び」は、active aging、positive aging、productive aging、successful agingなどの類似概念に接合可能である。
10項目の「生きる喜び」
これら10項目の理解から、生きがいを「生きる喜び」として、「安定した私生活の中で、自分を活かし、人生の意味を確認して、自由な関わりの社会関係をもち、未来への展望が可能だと感じる意識状態」とする観点を堅持しておきたい。
そのような結果を一つひとつ拾いあげて従来の高齢者研究の社会学説と照らし合わせていく作業をやらないと、「生きがい対策」分野の研究は進まない。
実際に調査票で獲得された高齢者データをきちんと統計学的手法で分析してこそ、数多くのことが学べる。研究の前進にとって、技法に裏付けられた計量的な調査は不可欠である。
「生きがい」は身体状況の関数
高齢者といえども男女間での違いは存在するから、社会構成員を男女ではなく、老若男女として認知するという基本に加えて、高齢者の研究では、調査票で自己申告された「身体状況」、すなわち健康性と非健康性あるいは要介護かどうかという区別が非常に重要である。
そして高齢者がどこに住んでいるか、それは都市部なのか過疎地域なのかという区分も現実的には大きな意味がある。なぜなら、居住コミュニティの規模に応じて、夕食宅配などの行政サービスの種類や量が異なるからである。
年齢、健康、コミュニティ
大都市に住んでいれば、医療、看護、介護のサービス資源が潤沢であるが、過疎地域ではそうはいかない。したがって、高齢者研究の際には、年齢(エイジ)による三つの区分(前期高齢者、後期高齢者、超後期高齢者)、性別(ジェンダー)による二つの区分、健康(ヘルス)かどうかという二つの区分、そして居住地が都市部か過疎地域かという二つの区分が必要になる。
それら最低限四種類の集合でデータを分析しないと、高齢者の「生きがい」と「生活の質」についての専門的な議論は難しくなる(金子、2013:114)。
高齢者の「生きがい」促進要因
まとめると高齢者の「生きがい」促進要因は図2のように整理できる。
すなわちこれまでの研究では、高齢者の生きがい要因は、家族との良好な関係、社会参加としての働くこと、外出すること、得意を持つ、運動散歩、趣味活動を行うこと、飲食する仲間が存在することなどによって強化されることが判明している。これらをすべて持つ事例は少ないが、半数ならばかなりな高齢者は持ちうるはずである。
また、社会学の役割理論の応用によって、「生活の質」維持に有効なライフスタイルとして、親や祖父母としての固定役割、夫や妻としての固定役割、町内会、老人クラブ、NPOなどでの地域役割が多くなる方が、サクセスフル・エイジングに結びつくことが解明されている注7)。
『新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画』にも使える
図2のような「高齢者生きがい促進要因」の知見がなければ、6月7日に公表された『新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画』(案)で謳われた、「在宅高齢者について、……(中略)介護予防や社会参加活動の場の充実の観点から、地域全体での活動を支援していく」(同上:9)などの文言は、単なる作文になってしまう。
何を求めてのどのような支援かが鮮明にならないと、せっかくの学術的知見が活かされない。
高校入試で出題されない科目が高齢者「生きがい」の8割を占める
生きる喜びとしての「生きがい」では、「趣味」だけではなく、男はそれまでの仕事の延長にある社会活動やその仲間との交流、女は家族との交流や近隣の友人との活動に、それぞれ生きがいを強く感じることがこれまでの諸研究により判明している。
もちろん「趣味」は極めて重要である。仮に「趣味」がないと自己判断するなら、今すぐにでも高校入試で出題されない科目(音楽、美術、保健体育、技術家庭)にそれを求めたい。
なぜなら日本人が「趣味」と考えるものの8割を分類すると、音楽、美術、保健体育、技術家庭に含まれるからである注8)。
多方面への関心が救いになる
これらのいずれかに「趣味」の対象が隠れている。さらにその延長上に「得意」もまた存在する。ボーヴォワールの名著でいわれたように、「もっとも恵まれた老年をもつのは、多方面の関心事をもつ人である。そういう人は他の者よりも再転換が容易である」(ボーヴォワール、1970=1972下:535)。
中高齢期から親密な他者を見つけ、高齢期の良薬となるような人的環境(ソーシャルキャピタル)を維持できるかどうかが、高齢社会における高齢男女の豊かな生活にとってのカギとなる。
そして多方面の関心を実行するためにも、再転換を行うにしても、本人のもつコミュニケーションの力がカギとなる。
コミュニケーション力が低下した高齢期への対応
ところが、通常の暮らし方をしてきた高齢者では、加齢とともにコミュニケーション力が低下している。
この事実を基にすれば、第1の年金、医療費、介護という高齢者支援、そして第2の生きがい対策に加えて、第3のテーマは高齢者のコミュニケーション力が低下することへの対応になる。しかもこれら3者は密接に結び付いている。
「高齢期というのは生活世界のコミュニケーティブな能力の荒廃である」と捉え、「生活世界」を「われわれが一緒に生活史、お互いに行為し語り合う場合の出発点」(ハーバーマス、1981=1987:424)と理解すれば、それは「毎日のルーティンの諸々」を指し、いわば「日常生活」そして「生きがいのある生活」とほぼ同義になる。
言語表現力が落ちてくる
具体的には、日常生活の中で高齢者本人の言語表現力が落ちてくる。言葉が不自由になってきて、総体的に物忘れを含めて「自分の」表現能力の低下が顕在化する。
もう一つはコミュニケーションの相手が次第に少なくなる。たとえば、身近な話し相手が病気で入院する、亡くなる、遠くに引っ越しするなどで、高齢者本人のコミュニケーション力はあるのにそれを発揮する場所や相手を失ってしまう。
もちろんコミュニケーティブな能力が荒廃するというのは、何も高齢期に特有なことではなく、時代にも左右されるし、本人の性格によることも多い。
高度経済成長期では各方面でイノベーションが生み出されたために、伝統的な知識、知恵、技術を保持している高齢者の出番が乏しくなったことにより、その存在が無視されることが増えた。それによっても、高齢者のコミュニケーション能力の低下が進行した。
このハーバーマスの理論を使うことによって、いわば従来の認識を飛躍させ、年金や医療費や介護問題を越えて、高齢者問題の一つに「コミュニケーション力の荒廃」という視点を導入すると、高齢者支援の方法にも幅が広がる注9)。
高齢者特有の身体的な劣性には福祉サービス
高齢者は日々加齢している存在なのであるから、身体能力面の劣性は不可避となる。それには、従来からの介護保険や類似の福祉行政サービスに含まれた諸々の政策で支援していく。これは万国共通の政策である。
ところが、身体的な劣性に対応する精神的な聖性の低下は放置されがちである。誰にでもやってくる加齢に伴う記憶力や判断力の落ちこみは仕方がないが、それ以前に一般論としても高齢者の経験と判断力を軽視する風潮が社会的に強くなってきた注10)。
コミュニケーション力で役割縮小を補う
そうするとますます高齢者のコミュニケーション的な能力が荒廃する。人間は誰しも社会システムとの接点に家族に関する固定役割を持ち、地域社会においては流動役割、職場では循環役割があるのに、それらが加齢とともにすべて剥奪され縮小させられるのが高齢者である。したがって、高齢社会とは「役割縮小過程」に到達した高齢者が三分の一を占める社会でもある。
だから、高齢者支援政策として何もしなければ、現今の高齢者の役割剥奪・縮小は進む。そのまま放置するか、高齢者を支えるかは社会システム全体の課題になるが、後者であれば高齢者が失った役割をどこでどのように創出するのかという問いになる。
「少子化する高齢社会」での政策にとっては、生活の質(QOL)を基盤とした「最適解」は無理だが、「次善解」として「役割」を媒介とした「生きがい」を見つける支援策は欠かせない。コミュニティづくりや地方創生の一翼を担う「地域役割」もまた、「生きがい」をそれらの活動に求める高齢者に期待されるところである。
(次回:政治家の基礎力(情熱・見識・責任感)⑩)
■
注1)本連載のサブテーマである「情熱、見識、責任感」は、「地元の声」を取り上げる国会議員や地方議員の区別なく、政治家の判断をも左右する。
注2)公助から商助までの5つの支援様式については連載第6回(家族と支援)で詳述した(2022年5月30日)
注3)連載第3回目の「選挙改革」案(2022年5月9日)で、「世代代表制」と「地域代表制」を並立させた根拠もここにある。
注4)ラべリングとは他者の行動に一定の「ラベルを貼る」ことの総称である。とりわけ特定の規範からの「逸脱」行為に使用されることが多い。代表的には「〇●族」や「暴走△▼」というようなラベルになる。
注5)ただし、図1では「共助」を独立させていない。「共助」を組み込んだのは「地域福祉システムモデル」の後からである(金子、2013)。なお、連載第6回(2022年5月30日)を参照のこと。また、新しい資本主義実現会議が6月7日に発表した「案」では、「国土強靭化基本計画」関連で「自助・共助・公助」が使われている(同会議、2022:29)。
注6)ここにいう手段的(instrumental)と表出的(expressive)についてはパ-ソンズの使用法に従っている(パーソンズ、1951=1974:395-424)
注7)active aging、productive aging、successful agingなどについては金子(2014)で説明した。
注8)公立高校入試がいわゆる主要5科目で行われるようになって50年以上経過するが、団塊世代を含む7年間の公立高校入試では、音楽、美術、保健体育、技術家庭も出題科目であった。それは太平洋戦争から15年が経過した前の東京オリンピック前後の期間であった。高校入試の出題科目であったために、9科目総得点200点のうち主要5科目に比べて配点割合は少なかったが、ともかく中学校3年間の経験としてこれらの4科目の基礎知識を学び直して受験したことは事実である。これは団塊世代の恵まれた経験であり、高齢期を迎えた現在、その60年前の知識(私の場合は音楽)が日常生活のなかでの「趣味」と「得意」を支えている。
注9)コミュニケーションの力は使わないと落ちるから、全国の自治体でボランティアを中心に行われている高齢者の「話し相手」になる地域福祉活動の意義は大きい。
注10)たとえば、近隣での「葬式」が仕切れる若い世代や中年世代はほとんどいないが、現在の85歳代以上の多くはそのノウハウを持っている。
【参照文献】
- 新しい資本主義実現会議,2022,『新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画~人・技術・スタートアップへの投資の実現』(案)同会議.
- Bauman,Z.& May,T.,2001,Thinking Sociologically(2nd),John Wiley and Sons Ltd.(=2016 奥井智之訳 『社会学の考え方』筑摩書房).
- Habermas,J.,1981,Theorie des Kommunikativen Handelns,Suhrkamp Verlag.(=1987 丸山高司ほか訳『コミュニケイション的行為の理論』(下)未来社.
- 金子勇,1993,『都市高齢社会と地域福祉』ミネルヴァ書房.
- 金子勇,1995,『高齢社会:何がどう変わるか』講談社.
- 金子勇,1997,『地域福祉社会学』ミネルヴァ書房.
- 金子勇,2013,『「時代診断」の社会学』ミネルヴァ書房.
- 金子勇,2014,『日本のアクティブエイジング』北海道大学出版会.
- Merton,R.K,1957,Social Theory and Social Structure,The Free Press.(=1961 森東吾ほか訳『社会理論と社会構造』みすず書房).
- Parsons,T.,1951,The Social System,The Free Press.(=1974 佐藤勉訳『社会体系論』青木書店).
- Simone de Beauvior,1970,La Vieillesse, Edition Gallimard.(=1972 朝吹三吉訳 『老い』(上下)人文書院).
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